2006 年 06 月 07 日 : Objective of technology
ソフィア・クレイドルは研究開発型ベンチャーであり、現在はモバイルという分野におけるソフト技術で新しき何かを追い求めて事業を展開している。
だから「技術(テクノロジー)」という言葉にはとりわけ敏感である。
そもそも、「技術って何?」と真剣に問い掛ける人も珍しいくらいに有り触れた言葉なんだけれど、そんな問い掛けから、研究開発型ベンチャーはスタートすべきかもしれない。
一般には、"技術"とはモノやサービスを創り出す方法のことであり、その目的は人間を原始的な暮らしからより豊かな文化ある生活へと導くためのもののようだ。
技術があったから、生活も良き方向に変化したし、新たな技術の誕生がある限り、人々の生活の進化発展はきっと継続するだろう。
それくらいに技術は人類に大きな影響を及ぼしているのにもかかわらず、一般的には無頓着な捉え方しかなされていないようにも感じられる。
技術開発に携わる人たちの世界においてさえ、そういった傾向が見受けられるくらいである。
では、ソフィア・クレイドルの R & D で大切にしたい考え方は、その技術が如何にして人々の生活を革新し得るのだろうかという洞察である。
言い換えれば、この技術によって、人々がどれくらい素敵な景色を初めて眺めえるのだろうかという想像である。
2006 年 06 月 07 日 : No way to say
対象とすべきものが偉大なものであればあるほど、言葉での表現は難しいものである。
「言葉にならない・・・」は、日常生活で当たり前のように使える便利な言葉だ。
僕たちもそれくらい凄いものを創っているつもりなのだけれど、それを人々に伝える難しさ、もどかしさを痛感させられる。
「言葉にならないくらい凄いソフト技術なんです」と一言で済むならば、どんなにか事はスムーズに運ぶだろう。
しかし現実はそうではなく大抵の場合、僕たちの想いをお客様のアタマにリアルな映像として再現してもらう必要がある。
だんだんと分かって来たのは、説得力のある説明を目指すよりも、自分の感性をできる限りそのまま伝えるほうが良いということだ。
そこで問題になってくるのが、自分の内にある感性が如何ほどのものかという命題である。
これまで生きてきてなんとなく理解できたことがある。
感性というものは、人に備わった全ての感覚から吸収され、蓄積され、それがアウトプットに活かされるのではなかろうかという仮説である。
だから、常日頃から心掛けているのは、どんなものでも素晴らしい物に触れる機会を絶やさないことである。
2006 年 06 月 07 日 : Web strategy
戦略とは、戦いを略することであるとも言われる。
資源の限られるベンチャーの場合、こう言う"戦略"的な発想が未来への希望に結びつくのだと思う。
ベンチャーを起業した頃、最も肝心であるのに困難な障壁は何だろうか、と自問自答していた。
自分なりに悟った答えは、研究開発したソフト技術を如何にしてひろくマーケットに浸透させるかであった。
いわゆるマーケティングというものがベンチャー起業における最大のキーファクターになるだろう。
どのように戦略的にマーケティングするかで未来は大きく左右されると考えた。
だからマーケティングはインターネットという新しいテクノロジーに頼り、そこから僕たちのアイデアを発信する事に全てを託した。
経営資源を集中特化する意味はどこにあるのだろうという洞察から全てが始まるようにも僕は想う。
次第に明らかになってきたのは、Web サイトに限った話ではあるけれど、3 〜 5 年後にイメージするような理想の企業が持つものを実現できたと思う。
目標とするものはもっと高きところにある。
けれども、ネットというバーチャルな世界であるにせよ、 3 〜 5 年後のイメージが現時点で具体化できているのは大きなアドバンテージではないだろうか。
2006 年 06 月 07 日 : Balance of game
いつの頃からなのだろうか。
明言できないけれど、自分への投資は意識的に惜しみなく行なってきた。
ソフィア・クレイドルという会社を創業したのも、自分自身の可能性を探るための、あるいは隠された才能や能力を見出すチャンスに賭けた投資と言えるかもしれない。
求めるものを得るためには、投資という行為は欠かせないものである。
何故なら、何も無いところから有を見出そうとするよりも、元にあるものがあってそれを自分の想い描くものに転換する方がきっと着実だろう。
確かな着地点をリアルにイメージして、理想の世界を実現するには、時、想い、お金、モノ ・・・ いろんな投資が必要だ。
ただ一つの資源だけが潤沢にあるのもダメで、さまざまな要素のバランスというものも不可欠だ。
音楽、絵画、スポーツ ・・・ どのような業界においても超一流の域ともなれば、バランスこそが外せない軸なのかもしれない。
コントロール可能なパラメーターもあればそれがまったく叶わぬものもある。
それ故に確率的な世界に無力感を抱くこともあるけれど、実は世界というものはほんのちょっとした違いに過ぎないものが夢幻の如く華やかなものに見えるだけなのかもしれない。
この地球には数え切れぬほどの人が暮らしている。
ある人には些細に思えるものが別の人には一大事というのが現実でもある。
ひょっとしていかなる偉大なものもそんなところから出発するのかもしれない。
先ずは自分で納得できるアウトプットを出して、そのアウトプットを一人でもいいから、評価してくれる人が現れるまで高める努力を継続する。
であればあとは順風満帆になるのだろう。
2006 年 06 月 07 日 : 色褪せぬもの
理想とする着地点は遥か先にあるのは確かなんだけれども、デジタルなビジネスに対する視点だけはぶれないように努めている。
大切にしている考え方は、デジタルなものは良くも悪しくも色褪せないという見方である。
いずれデジタルな情報そのものが時代遅れになる可能性はあるにせよ、デジタルな情報は変わり様がないというのも一つの真理なのだ。
時代遅れになり得ない、或いは自律的に進化発展を遂げるようなデジタルな何かを創造することができれば、と思いを馳せることもある。
永久に色褪せぬような類のものとして、クラシカルな音楽や書物を挙げることができるだろう。
天才的な閃きによって創造されたものもあろうけれど、同じ DNA を有する人々によって為しえた結果であるというのも消し去ることのできない事実である。
そこで思うのは、ひょっとして無力なように感じる僕たちにも潜在的にはそんな才能や能力が眠っているのではないかという仮説である。
果てしなく長き道のりも、最初の一歩から始まるものであり、それが二歩、三歩、・・・と連続的な軌跡として前方へと着実にひろがって行くのではないだろうか。
デジタルな仕事というものは、過去の業績を追い風にして、連続的に前進できる性格があるような気がする。
前進しているのか後退しているのか、日々の時の流れと共に生まれるアウトプットから反省しつつ、常に目指す方向に進んでいることが確認できるかが分かれ目になりそうに思えてくる。
2006 年 05 月 16 日 : 未来への展望
最近読んだ「広告の天才たちが気づいている51の法則」という本から。
真っ直ぐな一本の線を引くことで、次の等式は正しくなる。但し、等号は変えてはいけない。
5 + 5 + 5 = 550
先ずは大局的にいろんな線を引いてみることから始まるのであろうが、どうすれば最短の時間で解に辿り付けるのだろうかと考えてみたりする。
仕事をしていると、実に様々な問題に遭遇するけれども、大抵はこの問題と同じようにいとも簡単にあっさりと決着するものだ。
すぐに解決するのに、何故かゴールに到達するまでに時間が掛かってしまう。
そこで想うのは、スローに時を過ごすのもたまにはプラスな効果を醸し出しているのかもしれないということである。
様々なアプローチを試しては失敗した経験も、きっと遠い未来で何らかの意味を持つことだってあるかもしれない。
2006 年 04 月 16 日 : Quite something
ベンチャー故に、絞り込んだ領域でソフトウェアに関する研究開発事業を営んでいる。
常に心掛けているのは "something" という雰囲気かもしれない。
何を意味するのかと言えば、さまざまな障壁を乗り越えて生まれた作品が、瞬間的に分かるようなものじゃつまらない・・・という発想である。
何か得体の知れぬもの。
世界を観察していると、ロングセラーと言われるものほどそんなオーラに満ちている。
誰にでも分かり易くプレゼンすべきなのかもしれないけど、"quite something"なものはきっと一筋縄ではいかないのだろう。
何故なら使う人の環境によって、それは生き物のように七変化するからだ。
そんなものがひとつでも創造できれば、心の充足感は計りしれないほどと思う。
だからこそベンチャーをする意義があるのかもしれない。
2006 年 04 月 16 日 : Virtual reality
ネットからダウンロードした曲に耳を傾けながら、同じ曲なんだけれどそのときの心の様相によってさまざまな仮想現実が時々刻々と生まれては消えている。
これといって物理的で素敵な何かを求めるわけではない。漠然と想像力豊かにしてくれるものを自然と探し求めている。
21 世紀という新しい時代は、なんとなくそんな方向に動き出している実感を得ている。
y=F(x)
同じ関数 F でも x の値が異なれば、F の作用による x の結果 y の値もさまざまに変化する。
数学的にはそんな F のようなモノを創り出すことが僕の目標の一つでもある。
できれば結果である y の値は、それぞれのオリジナルとも言える x にとって最高にしたいという思いが確かにある。
2006 年 04 月 15 日 : Resonance
インターネットの時代で、最も心せねばならないのはスピード感ではないだろうか。
アインシュタインの特殊相対性理論によれば、物体は光のスピードを超えることができないと言う。
物理学での物体には質量が伴うが、人の意識や感情にはそれに相当するものが無い。
だからひょっとすると、そこには超光速の SF 的な世界がひろがっているのかもしれない。
インターネットビジネスの例ではこんな感じだ。
ネットの世界では、場所を異にする複数の人々が、同時にある情報を見て感じ思考し判断する。
その瞬間起こる興味深いことは、物理的に離れた人と人が共感するという現象である。
インターネットは、世界中遠くに離れた人々の意識が、光速を超えて共鳴し得るという事実を示唆しているように思える。
新しい時代では光速を超えたスピードで世界が変わるのかもしれない。
それだけにネットにおける情報発信の意義は高まるだろう。
2006 年 04 月 12 日 : 不易流行
「不易流行」という言葉がある。
かの有名な松尾芭蕉の俳諧理論を集約した概念で、芭蕉が創った言葉といわれている。
『去来抄』では、不易と流行に分けてこんな風に解説されている。
「去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。」
簡単に言えば、不易とは不変、流行とは変化を意味し、それらの根本は同じということらしい。
ご存知の通り、俳句は季語を含む五七五の三句十七音からなる定型詩である。
ともすれば、マンネリしがちな俳諧の世界にあって、どうやって道を切り拓いてゆくべきかという芭蕉の悟りが「不易流行」に込められているのかもしれない。
俳句ほどではないにせよ、携帯電話向けソフトウェアの世界にも、「不易流行」に通じる何かがあると考えている。
携帯電話では PC やサーバーといったような無尽蔵なハードウェア資源を期待できない。
けれども、十七音からなるたったひとつの俳句によって新たな境地が切り拓かれて人々の心に刻まれるように、携帯電話向けソフトウェアでもそれが充分に可能だと考えている。
未来永劫に変わらぬ原理原則のようなモノなくして何も始まらないし、そこから出発して一風変わったモノなくして普遍的な知の体系がひろがることもない。
不易から出発した流行の中から新たな不易なものを発見する。
そして不易なモノを系統立てて、コンパクトな携帯電話向けソフトウェアとして、ステップバイステップに積み上げてゆく。
僕たちの仕事は概ねそんな風に芭蕉の「不易流行」というスタイルを目指しているのかもしれない。
結論として言えるのは、僕たちの創っているものは日々変化に富むものかもしれないが、その基本は携帯電話に限らずあらゆるコンピューターに応用できるというコンセプトである。