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President Blog : Sophia Cradle Incorporated

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2005 年 04 月 20 日 : Core concept -5-

芸術や文学の世界では、アーティストや作家がその生涯で創り出した中で最も優れた作品を「最高傑作」と呼んだりしている。ソフィア・クレイドルではスタッフがアーティストのような感覚で働くスタイルを理想型としている。だから私たちが自信を持って誇れるような「最高傑作」を創作できることを最大の目標にしている。

ソフトウェアビジネスはある意味でとても厳しい世界といえるかもしれない。同じ種類のソフトウェアは秀逸のものが世界でただ一つあればそれだけで充分だからだ。例えば、パソコンのオペレーティングシステムならばWindows、画像を編集したければPhotoshop、動きのあるホームページを創りたければFlashといった風に用途毎に使うソフトはほぼ決まっている。その昔、競争と呼べるものは確かにあったが、今では決着が付いてしまってソフトウェアの種類毎に世界のマーケットで寡占が進んでいる。ソフトウェアの分野ではそんな傾向が他のいかなる業界よりも顕著だ。できるだけ早めに超一流の作品を先ず最初にマーケットに投入する行動こそが他の何よりも勝る最優先事項だ。

ライセンシングビジネスの厳しさは一握りの勝ち組として常勝を続けるか、或いはその他大勢の負け組として淘汰されるかでそのギャップが余りにも甚だしい点にあろう。勝ち組として生存できれば、全てのマーケットをほぼ手中に収め独占することになる。しかし、負け組となればマーケットからの全面撤退を余儀なくされる。謂わば"All or Nothing"若しくは”0か+∞(無限大)”の世界。その結末には天国と地獄という両極端な様相が待ち構えている。この種のビジネスはそんな性質があるという事実をよく理解してから創めなければならない。そういった大前提に基づいて事業を運営しなければ夢や希望といったものは日を追うごとに遠退いてゆくであろう。

この厳しい現実を踏まえた上で、敢えて世界の最高峰を目指して積極果敢に垂直登攀しようとする、潜在的に有能な人がこの日本に少ないのが残念でならない。しかし言い方を変えればこれは競争が極端に少ないことを意味し、挑戦する者にとっては千載一遇のまたとないチャンスと置き換えて解釈もできよう。実際のところ英明の誉れ高き英才と雖も大多数は大組織のなかの平凡な一スタッフのままその生涯を終えるに過ぎないのだから。

究極のポイントは「私たちが世界マーケットに向けて超一流の最高傑作と誇れる作品を本当に創造し提供できるのか?」という一点に尽きるように思う。最初からの完璧は望むべくもない。けれどもその作品の最終形の姿にどこか不自然なところや欠ける点が少しでもあれば間違いなく自然淘汰される。一寸の隙も許さないくらいの完全さや完璧さが求められる。超一流と称されるもので完全さや完璧さを欠いた自動車、飛行機があるだろうか?

デザインとプログラミングの座標軸で構成される空間を固唾を呑む思いで眺め、そして確かな才能を有する異能的な人材を妥協せずに先ず集める。そして超一流の芸術作品を創作するかのように、感性を研ぎ澄ませ、真剣かつ真摯に仕事に没頭する。そこに私たちの思いや願いを100%実現させるためのヒントが隠されているような気がする。

人材面においては、デザインとプログラミングという尺度で95点の人を100人集めるよりも一人でも良いから100点の異能を発掘することが何よりも優先される。確かに95点の人は一般的な仕事をする上で何ら問題ないかもしれない。しかし全世界の何千万、何億もの人が心から喜んでその作品を要望するかというと、たった5点の違いかもしれないが100点の異能には遥かに及ばない。この業界はこれが当たり前の世界なのだ。たとえ95点の人を100人集めたとしてもそれは成し得ないのだ。些細なニュアンスに過ぎないほど紙一重なのだがその差は余りにも掛け離れている。

自ずと世界中の誰もが心底喜んで使ってしまう作品を創ろうとするならば、この例えとしては音楽や絵画と同じように完全かつ完璧でなければならない。最初からそうである必要はないが、何れそうならないと確実に淘汰されてしまう。超一流の音楽には雑音のようなものはないし、自動車にしても世界にその名を轟かせるような高級車ともなれば乗り心地などは快適そのものだろう。ソフトウェアに関しても同様で、どこにも欠陥がなく使い心地が良くなければとても世界の人びとに使ってもらえない。世界へ旅立つということはそれくらいシビアな現実に直面することを意味する。しかしそれが仕事への遣り甲斐にも通じ、最終的に仕事を成し得た時の自己実現の面における達成感は生涯の掛け替えのない人生の証左にもなろう。

「百里を行く者は九十を半ばとす」(「戦国策」)という意味深長な戒めの箴言がある。たとえ残り1%になっても油断することなくしっかりと止めの仕事に励めと謂わんとしているのだろう。人間的感性の側面から謂うのならば、100インチの大型ディスプレイに映し出される映像もそのディスプレイの中央にある1インチ平方の部分の映像が欠ければ、映画の楽しみも半減してしまうということだろうか。それはデジタルな世界ではほんのちょっとした瑣末な出来事に過ぎない。けれども、アナログ的な人間の感性にはそれが何十倍、何百倍もの大きさになって跳ね返って響く。超一流の作品創りを目指すに当たって私たちが最も肝に銘じて実践している習慣は「百里を行く者は九十を半ばとす」ということだ。最後の詰めの仕事を完璧にこなして、最後の最後でその作品の機能や品質を極限のレベルにまで飛躍させる努力を続けている。人間という生き物にとってこの習慣は簡単に見えて意外に難しい。

(つづく)

2005 年 04 月 19 日 : Core concept -4-

既に上場し成功しているネット系ITベンチャーの多くは今から10年ほど前に創業した。それはWindows95が発売された頃で昨今のインターネット時代の夜明け前後といえるかもしれない。当時インターネットはダイヤルアップ接続で使うのが普通で、現在のように常時接続で利用していたのは大企業か大学くらいだった。

重要なポイントは、1995年当時に10年後には今日のようなかたちでインターネットが当たり前のように普及するという確信に満ちた明晰なビジョンを描き得たベンチャーのみが成長し、稀有な存在として生き残り隆盛を極めたという点にあるだろう。今からこの世界でベンチャー起業をしようとしてもその参入障壁は高く、視点を180度切り替えなければ成功は覚束ない。逆にいえば、10年前なら何をしても今より成功する確率は格段に高かった。だからこそ、ベンチャー起業家は時代の先を読む才能や能力を常に磨く訓練が欠かせない。ベンチャー起業家にとってタイミングを見計らった先見力といったような慧眼は最も欠かせない資質の一つといえよう。

最近、経営破綻若しくは経営が行き詰まっている、かつての超優良企業が数多く見受けられる。10年前なら想像すらできなかった出来事や事件が現実に次々と連続して発生している。そんなつもりで入社したわけでないのに、想いもしない最悪の境遇の中で時代の波に飲み込まれそうな人が増えてきている。新しい時代に向かっていま世の中は変革を遂げつつある。

人は未来の世界を肉眼で確認できない。どうしても自分の目でいま確かめられる材料だけでものごとを判断しがちだ。学校で未来へのビジョンを描くような教育や訓練を受けてこなかったからだろうか。そんな才能や能力に長けた人が極端に少ない。それ故、想像力と行動力さえあればそれを活かそうとするところに新たなビジネスチャンスを見出せそうだ。もしベンチャー起業というニッチビジネスが成功するならば、理由の一つはそんなところにあるのではないだろうか。

ソフィア・クレイドルが創業したのは2002年2月。その当時、ベンチャー起業を成功させるために最も考えたのは10年後のビジョンであった。ずっとコンピューターに関連する業界で働いていたので、この業界が時間軸を切り口にしてどのように姿を変化させてゆくのかについてルーペで覗くようにして深く思索に耽った。

その結果、10年後に極めて有望だと自信と確信を持って言えるベンチャービジネスを一つ発掘できた。それは、モバイル機器を対象としたソフトウエアのインフラ或いはプラットフォームに関連する事業である。その当時、携帯電話や無線LAN、ブルートゥースを始めとして、ワイヤレスコミュニケーションの環境が整備されつつあった。年を追う毎に通信速度も向上し、しかも利用料金も急激に低下してゆく傾向にあった。ワイヤレスコミュニケーションそのものが水道、電気のようなインフラとして機能する兆しがあった。

ITの世界において、ハードウェアとソフトウェアは車の両輪のように表裏一体のものである。いくら機能や性能が充実していても、どちらか一方が欠けると全く使い物にならない。当時、ハードウェア的なインフラは整備されつつあった。しかし依然としてソフトウェアの面はほとんど手付かずの状態だった。謂わば未開の荒野だった。私たちのようなベンチャーでも入り込める隙間は確かに存在した。だからそのチャンスを逃さないように最善の努力をした。

創業間もないベンチャーである以上、人材、資金、設備は限られる。それだけに、事業領域の選択だけは絶対に失敗は許されない。そのためには、その事業が社会から必然的に要請されるであろう明確な理由を探すのが何よりも先決だった。それはソフィア・クレイドルというベンチャー経営の拠り所にも成り得る。そのロジックに従ってベンチャーは成長してゆくと考えた。孫子で謂うところの「百戦百勝」をそんな思いで実現しようと目論んだ。

ソフィア・クレイドルのビジネス的な発想の原点は「パソコンが携帯電話サイズに収まったらどうなるだろうか?」という問い掛けにある。外部の人には分かり易いので、携帯電話向けのソフトウェアを開発している会社と言うことにしていつも自社のことを紹介している。正確に言えば、10年後にはパソコンが携帯電話サイズになることを視野に入れて、そのために必要となるであろう、ソフトウェアのプラットフォームを研究開発しているドリームチームがソフィア・クレイドルなのだ。

いまは有線で繋がっているディスプレイやキーボード、マウス、ハードディスクも永遠にそうである必要性は全くない。必ずワイヤレスで接続される時代が来ると考えた。理由は単純で、その方が圧倒的に便利だからである。パソコンも携帯電話サイズになって困ることは、盗難や置忘れなどセキュリティ的な問題くらいしかない。自分のコンピューティング環境を手軽に持ち運びできる。こんな便利な世界はこれにまでになかった。必ず人びとから必要とされる。そんな風に推論して、この事業の未来における有望性を期待から確信へと変化させた。

パソコンが携帯電話サイズで手軽に自由に持ち運びできる、便利なモノになれば、それに応じて利用するための多種多様なアプリケーションが世の中からいままで以上に求められるであろう。その時、必須となるのはそういったアプリケーションが簡単かつ迅速に開発できるソフトウェアプラットフォームではないだろうか。そんな未来へのビジョンを起点として私たちは夢を次第に膨らませていった。

(つづく)

2005 年 04 月 18 日 : Core concept -3-

企業の利益というものは社会、顧客、社員、会社等など、さまざまな存在の成長や進歩の源泉となりうる。重要なポイントは、それが短期ではなく長期的に継続して増加傾向にあった方が良いということだ。時を経るにつれ確実に成長しているのを実感するのは働く側の立場として達成感がある。顧客の立場としても、継続して以前の製品の性能を上回る新製品を手にするのは一つの大きな喜びであろう。

問題はどうやって長く継続して利益を出し、しかも常に増やし続けるかというところにある。短期的に利益を出すのはテクニックでなんとかなりそうだ。しかし利益が単調増加するような繁栄を築くには根本的な原理や原則となるものがその企業に備わっていないと難しいのではないだろうか、という風に考える。

単純に考えれば、粗利益率の高い商品を扱い、それをたくさん売れば利益の額は大きくなる。しかも効率的な仕組みを導入すれば社員一人当たりの利益の数字も大きくなろう。大事なのはどうやって粗利益率が高く、しかも売れる商品を仕入れるかという点であろう。ライセンシングビジネスは確かに粗利益率は高い。けれども、それを採用する人がいなければその価値は事実上ゼロである。「確実に売れる」という前提条件が必要なのだ。

「フォーカル・ポイント」という言葉がある。日本語では「焦点」という意味だ。太陽光線を虫眼鏡で焦点を合わせれば紙は燃え始める。フォーカル・ポイントにはそんな偉大な力が隠されている。一般に人間というものは弱い生き物なので、なかなか一つに絞り切れずに人生を無為に送りがちだ。寝食を忘れて何かあることにひたすら情熱を傾け、ライフワークともいえる仕事に取り組んでいる人は少数派なのではないだろうか。

不思議なもので、真剣かつ客観的に世界を眺めていると、その中に隠された本質的なある一点を必ず発見できる。私たちのようなベンチャーはそのポイントにフォーカル・ポイントを合わせ集中し、その一点にだけ全精力を投入し、結果的に「傑作」といえる新商品を創り上げる。

その商品が売れるか否かは、その商品を創ろうと思った切欠や創る過程における姿勢に全てはかかっているといってもよい。どれくらいの思いをその商品に抱けるかで全てが決まるのだ。だからこそ、大切になってくるのは、その商品が本当に社会的に価値があるものかということ、それから何よりも私たちの才能が十分に発揮され、面白く楽しんでその仕事に取り組めるかという点に尽きるであろう。

あわよくば世界を変革するような歴史的な出来事に遭遇し、それを自らの力で成し遂げることに喜びを見出せることができそうなのであれば、きっと売れる商品は創れる。そんな信念がベンチャー経営では外せないポイントなのではないだろうか。それこそが長年にわたるそのベンチャーの成長の源になるような気がする。

実際にハイテクベンチャーの経営していた分かってきたことが一つある。それはある新商品を開発する時、そのスケールが大きければ大きいほど、その開発やマーケティングの過程でそれだけ大きな難関が待ち構えているということだ。ベンチャーの場合、人材や資金、設備は限られる。大きなプロジェクトに取り組もうとすれば、最悪の事態に備えて予めいろんな手を打つ段取りが必要だ。折角いいところまで進んでいるのに、開発資金が尽きて終わりになるベンチャーは数え切れないくらいある。

この問題に対する、私なりに考えた対策は創業期から多少なりとも利益をあげるような企業体質にし、その利益をフラグシップともいえる新商品の研究開発に投入するという経営方針である。そうすれば、外部から資金調達をする必要はないので、他人の思惑に左右されず、あらゆる面で落ち着いて自由度のある意思決定ができる。これが売れる新商品の研究開発に向けてポジティブフィードバック的な効果を及ぼす。

このやり方の場合、肝心の商品が出来上がるまでに多少時間がかかり、その分業績の曲線が右にずれることになる。しかし、その新商品が本当に売れるならば寧ろそのように取り組むべきだと思う。何故ならば、たとえその新商品が無かったにしても利益は出ているわけで、最悪その新商品の全く売れなくとも経営上問題は全くない。幸運にも売れた場合は、ライセンシングビジネスであるため、売れた分はすべて利益になる。

新規性のあるハイテクベンチャーの新商品というものは発売と同時に爆発初的に売れるものは稀で少数派だ。一般にそれが社会的に意義のあるものであるならば、ある程度の時間を経て徐々に売れていき、クリティカルマスというポイントを超えた時点で爆発的に普及する傾向にある。それはその商品の性質によって異なるだろうが、そのかたちはどんな分野にでも共通するものだと思う。時間軸上に展開される、時代の潮流をどうやって見極めるかが勝負の分かれ目となろう。

経営者は勝負すべき商品とタイミングを自由に取捨選択できる。未来の空間において、いろんな新商品について売れるピークポイントを考えてみる。現有のスタッフで経営的に現業で黒字を維持しながらそのピークに合わせて研究開発し、マーケティングできるならばその新商品を選択すればよい。そのようにすれば成長は確実に見込める。もしその新商品が当たれば、ライセンスビジネスは粗利益利は100%なのだから高収益性を加速しながら急成長をも期待できるかもしれない。

(つづく)

2005 年 04 月 15 日 : Core concept -2-

小学生の頃、社会科の授業で習った「再生産」というキーワードがいまも頭の片隅にある。存続する限り、企業では製品やサービスが延々と再生産され続ける。毎年毎年それが同規模であれば「単純再生産」、増加傾向にあれば「拡大再生産」、減少傾向にあれば「縮小再生産」と呼んでいたことを記憶している。

会社というものは適正な利潤をあげて、それを新しい投資に回し、人員や機械などの設備を強化し、拡大再生産を続けなければならない。先生の話を聴いてそんな風に小学生ながら考えていたのが、今更ながら懐かしい思い出だ。

利益の約40%は税金として納めることになる。拡大再生産によって新たな雇用が創出されるし、それに必要なモノも売れる。だから、利益をあげるということは社会貢献に繋がっているともいえよう。問題は如何にして利益をあげるかだろう。これはベンチャー起業の永遠の課題でもある。

さて、商売をしていると「利は元にあり」という格言のような言葉をよく耳にする。商売する上で利益は企業存続の糧であり、その利益は良き仕入れから始まるという意味らしい。良い品を仕入れて妥当な値段で販売し、適正利潤を得ると考え方である。松下電器産業株式会社創業者の松下幸之助氏によれば、仕入先から良い品を安く買い叩くのではなく、お客さまと同じくらい大切に仕入先と接してゆくことこそが何よりも肝要であるとのこと。確かに利は元にあるようだ。

未来永劫、企業が成長し発展してゆく進捗の度合いは毎年内部留保される利益の多寡によって左右される。従って、どうすれば利益は最大化されるのかという問い掛けは企業を経営していると避けて通ることはできない。ベンチャーの創業期であれば会社自体の資本や資産も少ないわけだから、尚更どうやって利益を上げ、それを内部留保し、会社を健全に成長させてゆくべきかというのは最重要課題に思える。

会社が育つことで仕事の範囲や規模も大きくなり安定感も増す。遣り甲斐に溢れるスケール感ある仕事にも恵まれる。そして自分たちの能力の限界に挑むことも可能だ。ゼロから無限大へと伸びる成長曲線の軌跡を描きながら、未知の世界を探検する楽しみ。実際のところ、それがどういったものなのかは当事者にしか理解しえないかもしれない。人によってはワクワク&ドキドキする体験ではないだろうか。

大抵の場合、ワクワク感、ドキドキ感というのは、初めて経験するものに対して抱く、掛け替えの無い人間だけの感情ではないだろうか。そして、その気持ちは主として自分がそれによって何か変化する時に自然に湧いてくる不思議なものに思える。子供の頃、未知の世界のいろんな出来事を経験し、それに触れる度にある種の感動や感銘を受けながら成長した。あの感覚に近い。

ベンチャーにはそういった魅惑に満ちた一面が隠されている。毎年毎年、見える景色や風景が四季折々ダイナミックに変化するのだ。その度にいろんな出会いや出来事に一喜一憂しながら、私を含むスタッフ全員、そして会社が成長してゆくのである。そんな会社の成長の源泉は利益にある。時間軸をも想定した上で、その利益をどうやってバランス良く最大化させるかというのが会社経営上の大切な課題に思える。

短期的に儲かれば良いというのではなく、長期に渡って継続して安定的に利益がでる仕組みが大切だ。そのためにも「利は元にあり」という昔から伝わる、シンプルな言葉をどのように解釈するかがヒントになりそうだ。

粗利益とは売値から仕入れ値を引いたもので、粗利益が会社の利益の元でもある。単純な話だが、仕入れが無ければ、粗利益率は100%ということになる。利益という観点からすれば、これこそまさに理想の状態だ。商売をする上では究極の姿だろう。極論、仕入れ値が0円であるなら、ゼロで無い限り売値を如何様に付けても粗利益率は100%である。勿論、粗利益に売れた数を掛けたものが全体の利益に繋がってゆくので、売れる数の方も重要だ。

以上のようなロジックを背景にして、ベンチャーを創める時に最重要視したのはこういうことだ。即ち、粗利益率が限りなく100%に近く、売れる数も多い。そういったビジネスモデルをどうやって構築するかということだった。その問いに対する一つの回答が携帯電話向けソフトウェアのライセンスビジネスであった。ライセンスするソフトウェアそのものを自社で研究開発し、製品化し、それをインターネットで世界中に配信する。そのようなビジネスモデルが完成した暁には、その製品が売れるという前提で粗利益率100%のビジネスが成立することになる。売れる数は世界の携帯電話の台数だけあるのだから、その利益の絶対的な数字も大きなものとなろう。

塵も積もれば山となる。たとえ一個あたりの粗利益が低くとも数が多ければ、掛けて足した数字は大きくなる。そんな算法が応用できる。

このビジネスモデルの最大のネックは商品であるソフトウェアが完成するまでは売り上げが確実にゼロであるということ。それから長い時間と多額の開発費用をかけて商品が完成したとしても売れる保障はどこにも全く無いということだ。虎穴にいらずんば虎子を得ず。それにすべて賭け、自分たちを信じるしかなかった。

しかし、やり方次第では限りなく高い確率で売れる商品の研究開発も可能であることが事業を進めている過程でだんだんと分かってきた。この場合、「利は元にあり」にいう「元」に相当するのは私たちそのものであり、自らコントロール可能なパラメーターだ。本来なら仕入れるべき商品を私たち自身が創ることになるのだから。松下幸之助氏が指摘したことを応用するならば、経営者の立場としては、自社の商品であるソフトウェアを開発する人たちを大切にしたり、職場環境をよりよくすることに心掛けた。そうすることで全てが前向きに加速して進んでゆくように感じられた。

(つづく)

2005 年 04 月 15 日 : Core concept -1-

いま自分の心の中にあるイメージによって未来はかたち創られる。どんな環境下でも果敢に挑むことを怠らなければその思いは実現するという。そのために核心ともいえるコンセプトを、それに集中できるように明確な文書にすることは大切だ。文字や絵にして表現するプロセスを通じて取り留めのない考えもしっかりとした、かたちあるものへと前進し収斂してゆく。

1回では全てを語り尽くせない。他の構想は後回しにして追々話すことにして、何回かに分けて「ソフィア・クレイドル」というベンチャーの事業運営のコンセプト的な辺りをまとめてみたい。ベンチャーを経営している上で遭遇する、あらゆる事象に対する意思決定の判断基準になっている拠り所みたなものである。

普通に考えると、テレビCMに出てくるような有名な大企業は完全無欠な理想郷のような存在に思える。しかし世の中のあらゆるものごとにはコインのように必ず表と裏の両面がある。

1990年前後くらいから日本の社会全体が高度経済成長期から停滞期或いは衰退期へと時代は移り変わっている。それとともに、多くの上場企業が崩壊し、吸収合併もしくは倒産を余儀なくされている。大企業の時代は終焉し、何か新しい変革の波が押し寄せている。ベンチャーを起業し新境地を開拓する、絶好のタイミングでもある。

優秀な人材に恵まれた大企業では、ある1人の卓越した社員の働きで大きな利益が会社にもたらされる例は日常茶飯事のようにある。しかし、1人当たりに換算すると母数が大きければ大きいほどその数字は小さくなってしまう。

利益を引き出してくれる社員が多ければその会社は確かに大いに発展するだろう。しかし、多くの社員は自分の給与分すら稼ぐのに四苦八苦している。有能な社員らが稼ぎ出した利益の大半はそういったところで穴埋めされ相殺される。それが多くの大企業の現実の姿だ。

寄らば大樹の陰。大企業には、輝かしい活躍をしている社員がいる一方、危機意識に欠ける社員も多い。将来への安心感、若しくはブランドのカッコ良さという理由で大企業に入社する人が大半を占める。世界的にもスケール感ある仕事をしたいがために、大企業に入社する人は寧ろ少数派だ。「モチベーション」というものを失った社員が多数在籍するのも事実だろう。

そういった洞察から私が悟ったのはこのことである。21世紀の時代は「一人当たり」の指標が企業の発展にとって重要になってくるだろう。年商や従業員数を誇るんじゃなくて、社員1人当たりの売り上げ、利益、それから平均給与などである。いくら会社全体の売り上げが大きくとも、個々の社員の生活が成り行かないのならば、それは大きな問題ではないだろうか。そこにベンチャー起業のチャンスを見出す努力をしていった。

会社の規模は小さくとも1人当たりの指標が大企業よりも大幅に上回っていれば誰しも未来のあるそちらの企業で働きたいと思う。時代はそんな方向にシフトしつつある。これまでの大企業というのはどちらかといえば、できるだけたくさんの社員を雇い、仕事をこなし、その企業の一部の幹部だけがいい思いをする。極、悪い言い方をすればネズミ講的なモデルのようにも見える。

スムーズに事業を立ち上げるにはどうしても設備面である一定以上の資本が必要であったり、ベンチャーに対する社会的なマイナス意識があったりして、敢えてベンチャー起業というような手を打つことが叶いにくかった。先見の明のある稀代の天才は当然のようにベンチャーを起業し、成功させている。しかし、その数は逆の意味で天文学的に低い確率でしかなかった。

ITバブル崩壊というようなものがあったにせよ、インターネットが発達し、コンピューターも手軽に買える時代になったいま、ベンチャー起業は確実にやりやすくなってきている。あと大切なのは起業に大変苦労する創業期をどうやって乗り切るかだと思う。

生き物と同じように、創業期の頃出来上がったかたちの相似形でベンチャーも未来へと成長してゆく。だから、最初にどういったコンセプトで事業を構想し、それを計画し、実際に行動へと移してゆくのかという仕掛けや仕組みが何よりも重要だ。多分、それが企業のDNAみたいなものなのだろう。

(つづく)

2005 年 04 月 13 日 : Asymmetric information

情報の非対称性(Asymmetric Information)とは売り手と買い手の間で持てる情報量に格差がある状態のことをいう。インターネットの発展と共に、両者の情報格差は縮小し、場合によっては逆転現象すら発生しているという。そんな世の中の傾向のエッセンスをどのように解釈し、それを経営に応用し実践できるか、それによって戦略シナリオの道筋とその展開も異なってくる。

インターネットが普及する以前は、売り手が買い手よりもたくさんの情報を持っていた。だから、営業員が顧客に商品について分かりやすくプレゼンテーションし、啓蒙する活動は必要不可欠であった。

時は移り変わり、いまは買い手がありとあらゆる必要な情報を瞬時にインターネット経由で入手できる時代だ。もし仮に買い手が事前にその商品情報を持っていれば、売り手はその商品の説明すらしなくてよい。極端な話、買い手が売り手以上の情報を掴んでいる場合さえある。

商品がオートマティックに売れるのならば営業員がいらなくなる場合もある。だから、売り手としてはこれ以上有難い話はない。こんな美味しい話には当然前提条件があるものだ。その商品が何故必要になるのか、インターネットだけで買い手が本当に理解し買う気になるのかということである。この問い掛けは極めて重要だ。

肝心なポイントは、どのようにしてインターネットというツールを駆使して、できるだけたくさんの買い手に短時間でその商品の良さを正しく理解してもらえるかという話に尽きると思う。

確率的な話からすれば、母数が多ければ多いほど当たりの数も増える筈である。そのためには、先ずはできるだけ多くの買い手にホームページを閲覧してもらう発想が重要になるだろう。

そのためには、まったく同一のモノなんだけれども、それを表現する方法は無限にあることを認識する必要があるだろう。同じことを異なる表現で延々と限りなく繰り返し説明するのは問題あると思う。けれども、適切にそれをやることでより多くの人びとにその商品の価値を理解してもらえるのではないだろうか。

分かり易い例でいえば、同じ商品について日本語と英語のホームページを用意していれば、国内だけでなく海外からも問い合わせや注文が入り、それだけ多く売れる仕組みができる。

当たり前のような話かもしれない。これと同じ考え方を日本語のホームページの中においても展開する発想がプラス方向に作用してくれるのではないだろうか。そのように仮説を立て、いま新しいホームページの構想を練っている。

同じ商品の説明でも、まずは商品の概要を知りたい顧客と、その商品の購入を真剣に検討している顧客とではすべき説明の内容、深さやトーンも随分と異なってくるはずだ。更に言及するならば、新しくかつ深みのある商品には、いろんなメリットがあって、顧客によってその商品を買う理由は異なるものだ。その顧客の思惑に沿ったシナリオでホームページが個別に構成されていればそれだけ売れる確率も高まるのではないだろうか。

ホームページ上に同じ商品について無制限に何通りも表現するのは事実上不可能であり、ある最適値を過ぎると逆効果になるであろう。肝心なポイントはその最適化プロセスにおけるバランス感覚にありそうだ。限りなく思考に思考を重ねたにしても、最終的にはそのプロジェクトチームの感性に依存する問題に帰着してしまう。それを考えれば日頃からいろんな素晴らしきモノに触れ、超一流を目指して感性を磨く習慣がとても大切に思えてくる。


……Glenn GouldによるJ.S.Bachのピアノ演奏を聴きながら、あんな風に洗練されたクールさでホームページが創れればと憧れを抱く。そこに辿り着くまでの道程は険しく曲がりくねっている。

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2005 年 04 月 12 日 : 千里眼

最近、海外とコミュニケートする機会が頻繁にあり、和英辞典が欠かせない。たまたま和英辞典を開いて「先見力」について調べてみた。すると、そこには"vision"や"foresight"といった英単語が並んでいた。"The governor is a man of vision."(その知事は先見の明のある人だ。)という例文があったりする。 

ベンチャーを経営していると、以前と比較して"vision"というキーワードを聴く機会が殊更多い。時代の先にあるものを洞察する「先見力」はベンチャー起業家にとって貴重な資質であるという暗黙の了解があるかの如く。

いろんな要素が複雑に絡み合うので、一概にこれと断言することはできない。しかし、「先見力」はベンチャーを成功へと誘う一つの大切な要因であることは確かだろう。

和英辞典のその先にある情報を眺めていると、「先見の明がある」は英語で"have a long head"というらしい。日本語に直訳すれば「長い頭を持っている」ということか。「ものごとを長期的に判断できる」と解釈すれば良いのだろうか。こんなところに英語に対する知的好奇心が刺激される。

"have a long head"という英熟語には「頭が良い」という味も含まれているらしい。英語圏では「先見の明」こそが賢者の証かもしれない。文化的な背景の違いを想像するのはとても興味深い。

日本では、一般に「頭が良い」というのは「学業の成績が優れている」というような意味で捉えられることが多いように思う。だから有名な学校を卒業すると、その人は「頭が良い」と同義であるのがこの日本の一般的な風景の一コマに見える。

学生時代を振り返れば、残念ながら「先見力」と呼ばれる才能を伸ばす訓練を受ける機会にほとんど巡り会えなかった。過去の知識を詰め込み式に丸暗記し、予め答えが一つ決まっているものと同じ解答をするだけでよい。その正解率によって学生は評価される。そんな教育を受けてきた。「先見力」については自分なりに努めてそういった才能を磨くしかなかった。

確かに過去の事実を知ることは大切なことだ。しかし、時代の流れや勢いのようなものから、不確定要素が多く何通りにも答えがあり得る、未知の世界を推論する。そういった能力の方が社会に出てからは実用的で実際には役立つものだ。過去を振り返るだけでなく、そこから無限の可能性を秘めた未来を見渡せる才能がいま求められている。

ベンチャーを経営して尚更それを実感する。実際問題として、「頭が良い」といわれる人たちを100人集めたとしても、その中で「先見の明」のある人は1人いるかいなかくらいだろう。日本の教育のシステム上、そういった努力をしてこなかったから仕方がないといえばそれまでなのだが…。実はそんなところにニッチを見出してベンチャーを創める意義がある。

過去と未来の世界は、いま現在というポイントを経て確かに一つの道として繋がっている。その事実を時空のひろがりの中で連続的に俯瞰できる才能が先見力だ。それさえあれば不安に思うことなく明るい未来を展望することができる。さもなければサイコロを振るようにして不確定に生きるしかない。だから所謂「頭が良い」といわれる人の大半が確率論に従った人生を送らざるを得ない現実がなんとも皮肉に虚しく響く。

創業当初、人材や資金、設備などで恵まれなくとも、他の人には見えない未来への構想力と決断力こそがベンチャーにとって掛け替えの無い財産となる。経営学的にはそれが競争優位の源泉となる。弛まなく無限の成長を遂げるベンチャーの成功の秘訣は千里眼のような「先見の明」にありそうだ。

2005 年 04 月 11 日 : Language for mobile phone

日常生活のコミュニケーションの基本中の基本は「言語」にあることに異論はないだろう。あまりにも当たり前過ぎて逆に「言語」というものに対する考察が等閑になりがちだ。それでコミュニケーションにおける数々の問題がいたるところで発生している。

コンピューターを思いのまま運用するには、ソフトウェアがそのハードウェア装置と密接にコミュニケーションをとる必要がある。そのための道具が「プログラミング言語」である。一般にコンピューターを動かしているソフトウェアは「プログラミング言語」を使って人間が記述する。

コンピューター業界でも、「プログラミング言語」は自明の存在で、真剣にその本質に迫って考察しようとする人が少ないように思える。ロジカルに考えれば、「プログラミング言語」は前提条件になるのだから、この前提が間違っていればすべて崩壊しかねないだけにいくら注意を払っても十分過ぎることはない。

大学生の頃、ある言語から別の言語へプログラムを変換するための基礎となる、チョムスキーの言語理論を勉強したことがある。チョムスキーによれば、プログラミング言語に限らず、人間が扱う言語は一般に普遍的な文法で表現することが可能らしい。だから、その効能はともかくとして、英語から日本語、或いは日本語から英語など、今ではあらゆる言語間の機械翻訳が可能で実用化されている。その頃、そんな未来の世界に期待感を抱いていた。

ソフトウェアを記述するための言葉であるプログラミング言語のエッセンスを知れば知るほど、それだけ素晴らしいソフトウェアを創作できると私たちはソフトウェアの研究開発に勤しんでいる。

コンピューター業界に詳しくない方はご存知ないかもしれないが、発行済株式の時価総額が今や世界 No. 1 となった米国マイクロソフト社の出発点は、BASIC というパソコンでは史上初のプログラミング言語の事業だ。意外かもしれないが、Windows などのオペレーションティングシステムや Office などのアプリケーションパッケージではない。BASIC というプログラミング言語があったからこそ、パソコン上でプログラミングしソフトウェアを創造しようと考える人たちが世界中で増えていった。そして、パソコン向けソフトウェアの市場が創出されたのだ。いろいろと批判は多いが、そういう点においてマイクロソフトは創業当初この業界に多大なる貢献を為した。

そんなこともあって、ソフトウェア業界でビジネスを成功させるためには、プログラミング言語の位置付けについては慎重に考えるべきだし、ビジネスにできるのであれば磐石な競争優位の確立すら可能に思っている。

実際のところ、ソフィア・クレイドルでは JavaBREW(C/C++ という 2 種類のプログラミング言語を扱っている。Java に関しては、Java という言語のシステム的な構造をプログラミングすることによって、普遍的に Java のアプリケーションが圧縮できるような仕組みを技術開発した。BREW( C / C++ )に関しては、C++ というプログラミング言語を、クオリティと機能性の優れたモバイルのアプリケーションが容易にスピーディに開発できるように、C++ というプログラミング言語の仕様を拡張している。何れのビジネスもソフトウェアビジネスのインフラであるプログラミング言語の周辺分野であり、謂わば空気のような存在である。別の言い方をすれば当たり外れの少ない世界といえる。

ベンチャービジネスといえば、10 件に 1 件当たればそれで良しとする風潮がベンチャー向け投資家の筋にあったりする。そのベンチャーをやっている当事者からすれば敗北することは許されない。必然的に成功する理由が必要であろう。勝つべくして勝つ、これからのベンチャーはそのように運営されなければとつくづく思う。それを現実にするための近道は、日常生活での当たり前のような話に隠されているような気がする。

2005 年 04 月 10 日 : 予兆

「地層が地殻の割れ目に沿ってずれて食い違う現象」のことを「断層」と呼んでいる。辞書にはもうひとつの意味として、「環境の相違による考え方の食い違い」とも記されている。断層というのは地震によって引き起こされる。ある日突然、地震は襲ってくる。時にそれは為す術がない大自然の脅威や怒りに思えてしまうこともある。とにかくその瞬間、人は本能的にエピステーメー状態になってしまう。

地球上のあらゆる生命には、本能で悟って地殻変動を予知し、難を逃れたりする才能が、本来備わっているらしい。大きな自然災害の後に動物たちのそういった行動を報道で知ると、生命の神秘さに愕然とする。科学的には、地震発生の前後にはその辺りの磁場が変化し、何らかの電気的なイオンらしきものが観測できるという。動物はそれを本能で感知するのであろうか。(太古の昔、人間にもそんな能力はあったに違いない。だとすれば、それを喪失してしまった原因は…?)

世の中の移ろいゆく無常な風景もそれに等しい。歴史には変曲点のようなポイントが確かに存在し、人類は過去さまざまな変革を経験した。第二次世界大戦、明治維新、関が原など、挙げれば切りがないほどそんな断層を経て私たちの今日の姿があるのだ。

断層を境界線として世界の構造が天と地ほどに激変する。人びとの生活や社会のあり方、そして個人の生きる術も、過去に当たり前のように通用していたルールやシステムは全く意味をなさなくなる。人は水中で暮らせないが魚は何の問題もなく生きていける。地上と水中では生存するためのパラダイムが異なるのだ。時代を振り返れば、それに似たようなパラダイムシフトが時折訪れ、その度に人々の生活が変化したことが分かる。

新時代にはそれに相応しい、今までとは異なる仕組みやシステムが要請される。それまで既得権益にあぐらをかいてきた人びとにとっては都合の悪い話なのだが、それ以外の人たちにとってはまさに絶好の機会でもある。これまでエリートコースと持て囃された、一流大学、一流企業などでの過ぎ去りし日の輝かしき経歴なんていうのも文字通り単にそれだけのこと。これからの時代、きっとその人自身の未来へと繋がるポテンシャルだけが信じれる拠り所となるだろう。そんな予感がする。

地震と同じで何の備えもなければ震災に飲み込まれる可能性が高いと思う。何かが起ころうとしている前触れのような予兆を敏感に感じ取って、未来に備えることが大切な習慣になるのではないだろうか。ベンチャー起業家であれば、そういった微弱な変化を捉える能力を研ぎ澄まさなければ、と思う。

最近、過去の時代を飾った巨大組織が次々と崩壊している。そして偉大と称された、去りゆく今は昔のカリスマたち。時代の流れは大組織よりも機動性のあるチームに味方しているにも感じ取れる。ヤンキースではなく、松井。マリナーズではなく、イチロー。人びとは何よりもユニークさで際立った個人やグループの直向さや活躍に、期待を寄せ注目しその推移を見守っているかのようだ。

精神的な一体感がチームのパフォーマンスをマキシマイズしてくれる。21世紀はそんな時代だと感じている。たったひとつのある才能の開花によって世界が良い方向に化学反応しそうな、そんな夢と希望を抱いている。だからこそ、巨大な組織や権威に迎合せず、正しく自分を主張するポリシーを貫きたい。しかしそれは、間違った信念や固定された観念を守るのではない。自らも学び変化しつつ、長く優しい眼差しを持ったり他者の考えの違いも受け入れることができたら。まさに新しい世界に向けて自ら脱皮できる柔らかさやしなやかさを養いたいと願っている。チームが小さければ小さいほど、それは成し遂げやすいだろう。

いま時代は曲がり角に差し掛かっている。そして一歩一歩着実に変わりつつある。それだけは確かだ。

2005 年 04 月 09 日 : On-demand software

サーフィンといえば、携帯電話でも波情報というものが有料コンテンツとしてネット配信されている。それくらい波の情報は大切で、それによってサーフィンの楽しみが倍増されるようだ。同じように、ベンチャービジネスを成功裡に運ぶには、時代の潮流とかトレンドには常に敏感であるべきであろう。時代の波に乗るというのはとても重要なことだ。そんな能力やスキル、才能は企業規模を問わず、すべての人に平等に与えられているのだから。創めの頃、弱小だったベンチャーがいつしか急成長し、それまで安泰だった大企業をも脅かす存在になる源泉はきっとそんなところにあるに違いない。

未来を予測する上で大事なのことが一つだけある。それは時代が向かっている行方を過去から未来へと流れる潮のようなものから自らの感性で掴み取って、心眼で素直にじっと眺める姿勢であろう。偉大であれば偉大であるほどに長い時間的なスパンでものごとの本質をよく見極め確かめて、事業全体を構想し、グランドデザインすることが肝要だ。ソフィア・クレイドルでは短期的な成長よりも寧ろ永遠の世界の中で進歩発展することに願いを込めて事業が運営されている。だから、この先、10年後、30年後、50年後、世の中がどうなっていくのだろうか?というような問い掛けを何よりも貴重な財産にしている。

そのために心掛けているは、時空の中にひろがる場或いは世界においてものごとの成長曲線を点対称に描くという発想法だ。次のように未来の世界を想像し、ベンチャービジネスを育てている。これから50年後の世界を知ろうとするならば、過去50年間の歴史を具に振り返って、現在を原点に位置づけて点対称な曲線を未来の時間軸に沿って延長するというようなイメージし、ものごとのエッセンスを探ろうとしている。

この先の未来、ソフトウェアビジネスは一体全体どのような道を辿りゆくのだろうか?

数年前、ASP(ApplicationServiceProvider)などのキーワードがコンピューター関連雑誌の紙面を賑わせた。今日、これと似たようなコンセプトが「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」というような、なんとなく洗練されたキーワードで呼ばれたりしている。簡単にいってしまえば、将来、ソフトウェアというものも電力やガス、電話と同じように使った分だけ利用者がその代金を支払うことになるだろうというコンピューティングスタイルの新しい見方である。

これを視座を変えて洞察することで新たなベンチャービジネスを構想することができる。実際、私たちはその流れに沿って事業を計画し実行している。

その発想の原点は過去から現在、未来へと時代がどのように移ろい変わりゆくのかというのを歴史的な視点からものごとを見つめるというところにある。

コンピューターが発明されて半世紀以上が経過する。最初はソフトウェアというものは存在せず、ハードウェアによってプログラミングがなされていた。50年ほど前に、フォン・ノイマン(?)の発案により、今日のようにプログラムを記憶装置に保存し、それを自由自在に変更できるかたちのものとして「ソフトウェア」が初めて世に姿を現した。

暫くして1960年代にIBM System/360という一時代を築き上げることになる汎用計算機が登場した。その頃のソフトウェアといえば、コンピューターのハードウェアを買えば自動的に付いてくるオマケみたいなものに過ぎなかった。ソフトウェアだけではビジネスは成立しえなかった。20年以上の時を経て、ようやくラリー・エリソンの率いる米国オラクル社がデータベースというソフトウェアパッケージで初めて大々的にビジネスとして成功できた。

そのビジネスのポテンシャルは今日の米国マイクロソフト社に代表されるパソコン向けソフトウェアパッケージビジネスと比較すればその規模は遥かに小さかった。ソフトウェアのビジネスがパッケージ販売として本格化したのはパソコンというプラットフォームがあったお陰だ。パソコンはそんなビジネスモデルには最適な存在だった。

21世紀に入り、多種多様な情報機器がインターネットに接続され、しかもそれらの機器は使い捨ての要素が強く、しかも携帯電話のようにその用途もダイナミックに変化するものも多くなるだろう。そうなってくると、ソフトウェアも使った分だけ代金を支払うというのが当然のあるべき姿のようにも思われる。今は、「オンディマンドコンピューティング(On-Demand Computing)」の時代が幕開けする前夜に私たちはいるのかもしれない。

ソフトウェアパッケージビジネスが汎用計算機ではなく、パソコンで華々しく開花したように、新しいオンディマンドなソフトウェアビジネスはパソコンよりも寧ろ携帯電話のような次世代を担う新しいプラットフォームで展開されるだろう、と私たちは時代の流れからそれを読み取って事業を構想し計画し展開している。

このような時代の背景を意識的に捉えた上で、どのような新しいソフトウェアビジネスを展開すれば良いのかをしっかりと見極めることが肝心要なポイントだ。ソフトウェアが電力やガス、電話のようなものと同じ位置づけになるとすれば何が重要になってくるのだろうか?そんなところから、新しいベンチャーは創まる。

電力やガス、電話に共通する特徴として、どこでもいつでも安定的に使えること、いろんな用途に利用されることなどを挙げることができるだろう。例えば、電力の場合、テレビ、洗濯機、掃除機、ポット、蛍光灯など実にさまざまな用途に利用される。しかも、停電することもなければ、電力の供給が不安定になることもない。次世代のソフトウェアにはそんな要素が求められると私たちは考えて、過去に存在し得なかった新しいアーキテクチャを持つソフトウェアを創っている。

そのようなオンディマンドなサービスに最も求められるものは、品質の高さと汎用性を兼ね備えたものを利用者に継続して安定的に供給することであろう。品質と汎用性こそがすべてといっても良い。電力、ガス、電話と同じように、インフラストラクチャーが磐石なロジスティックスを提供できるところのみがこの種のビジネスを独占することになるだろう。そういう事情があるので、オンディマンドなソフトウェアビジネスでは品質と汎用性こそが最高の営業力になるというのも一つの考え方だと直感的に思っている。裏を返せば、用途に合わせて如何様にも使える、変幻自在でクオリティの高い、新世代のソフトウェアは営業や宣伝、広告をせずともオートマティックに売れるということだ。

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