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President Blog : Sophia Cradle Incorporated

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2005 年 04 月 07 日 : Capability

ベンチャーに携わって6年余りの時が経過した。その間、幾多の壁を突破し、いろんな経験をし教訓と呼べそうなものを得てきた。「突破」、英語では「ブレークスルー(Breakthrough)」という、そのベンチャーに相応しいキーワードには個人的に感慨深いものを覚える。そのテーマで何百ページにも及ぶ書籍が出版されていたりもする。

小さな壁は比較的乗り越えることも容易だが、ベンチャーをやっていると、時には巨大な壁が突然目前に出現したりする。問題はとんでもなく大きな壁をどうやって突破するかにある。(「老子」では問題が大きくなる前に些細な段階で対処すれば何ら難しいことは起こらないと指南してくれてはいるが…。実際のところ、そうなんだけれども。)

サラリーマン時代には想像すらできない大事件に、ある日初めて遭遇することはベンチャーの世界ではよくある話だ。そんな壁を幾度か乗り越えるうちに自分を含めスタッフ全員がたくましく鍛えられてぐんぐんと成長してゆくのだから、天からの貴重な贈り物のようなものでありがたいのは事実なんだけど…。辛く厳しい現実がたまに訪れる。

ベンチャーを創める以前、実態があるかどうかは別問題として一般の世間ではそれなりに評価されるレールに沿った人生を過ごしていた。その頃は世の中社会一般に対して甘い考え方を抱くことも多かったと回想する。いまでは天と地ほどに違う両極端な世界を経験していることになるのだろうか。

一流と称される大学に入学し企業や研究機関に就職し、一見安定であるかのような生活を過ごすうちに無為に年月を積み重ねる人が多いような気がする。秘められた才能が永久にお蔵入りするような話かもしれない。もしかしてその人が偉大な発見や発明をしたかもしれないとすれば、それはとても勿体無いことだろう。

そんな大学なり、企業なり、組織に入るためには人並み以上の努力が必要だったはずだ。例えば、難関大学に入学するためにはそれに相応しいだけの難しい問題を解く為の訓練をしてきたからこそ入試に合格できたのだ。スポーツの世界で謂うならば、自分のキャパシティを超えるくらいのトレーニングを積み重ねた結果として、一流と称されるような能力やスキルが増してゆくものだ。そういったポジションを獲得するまではもの凄く努力するんだけども一旦それが手に入るとその努力を辞めてしまう人が余りにも多い。新たな壮大な目標にチャレンジする優秀な人が年齢と共に減ってゆくのがとても残念に思える。

努力するペースを緩めれば、必然的にそれだけ自分の成長のペースが緩まったり、最悪の場合、退化してしまうことすら実際には多いのではないだろうか。所詮、人間とは弱い生き物なのか。恵まれた環境に入れば、それが災いしてそうなってしまう人が多いように感じる。私がサラリーマンを辞めた理由の一つにそんな退廃的な生活のペースから脱却したいという希望もあった。

どんなものであれ、隠された潜在能力(Capability)というのは、難局を乗り切った時に初めて発見されるのが常だ。ベンチャーをやっていると必然的にそんな境遇に追い込まれる(恵まれる)のだから、そこからどうやって這い上がってゆくのかというのが最大の至上命題だ。そういった命題を証明する過程において、自分のうちに潜在的に秘められた才能が発見され、育ってゆくように実際にベンチャーをやっていてそんな感触を得ている。

危機感の少ない安定した場にいると、そんな風なニッチもサッチもゆかない場に出くわすことも少ないわけで、逆説的にはそれだけ自分が成長する機会を逸しているといえる。自分から意識して、自らの成長の機会を創って生きることもできるだろうけれど、人間というのはついつい楽をしたくなく性質にあってなかなか難しい。実際のところ、画期的なもの、革新的なものが何不自由の無い恵まれた環境から生まれるのは稀なケースといえるだろう。

米国マイクロソフト社にしてもWindowsが大ヒットした結果、一般の人には想像できなくらい巨額の収益が会社にもたされたのだから、人材面にしても設備面にしてもWindows以前と比較すれば間違いなく桁違いに良くなっているはずだ。爾来、それに見合うくらい、Windowsを遥かに凌駕し、私たちを新時代へと誘うほどに脚光を浴びる新製品はマイクロソフト社から生まれたであろうか?いろんな雑多な新製品は生まれたであろうが、依然としてマイクロソフト社の収益の8割以上はWindowsとOfficeに頼り切ったビジネスモデルになっている。

これは何もマイクソフト社に限った話ではなく、多くの大企業や組織に共通していえることだ。それが何故起こってしまうのか、というような根本的な原因や傾向とその対策を、最近、私はよく考える。ベンチャーがブレークスルーし、更に飛躍を継続するヒントがそこにありそうな気がしてならないからだ。

2005 年 04 月 06 日 : Imaginal

ソフィア・クレイドルのビジネスはミュージシャンの世界に近いといえる。直感と洞察により新たなソフトウェアをゼロからデザインし創作する。そしてそのソフトウェアはソフィア・クレイドルを起点にして世界中のワイヤレスな空間へとひろがり多種多様なモバイル機器に配信される、というビジョンを現実の世界に写像している。いろんなお客さまからのリクエストに応じるモデルではない。

そういうわけで、いまミュージックシーンがどんな風に動いているのかいつも興味津々で見入ってしまう。多くの人びとに親しまれている音楽にハズレはなく、アタリの曲はヒットすべくしてヒットしているような気がする。さらにモーツァルトのCDが現在数千円で購入できるからといって、ではそのソフトの価値や演奏家や、モーツァルト自身の価値がそれだけとは決して単純に計れないところも似ている。

退路を断ってベンチャーをするからには、奇蹟が必然になるようなメカニズムを予め組み込むことも重要である。これも音楽の世界から学べそうだ。9割以上が失敗するというのがベンチャーの宿命であるようにいわれるのはこんなところにあるよう感じる。それは、永き時間軸と広き空間軸から構成される「場」の中で展開されゆく理想郷の景色全体を色彩豊かに鮮明に思い描いた上で、そこへ至る道筋を明確化しつつ実際にその道を歩む人が少ないからではないだろうか。

音楽の場合、実にさまざま要素から構成される。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボード、ピアノ、作詞、作曲、レコーディング、プロデュース等など。爆発的にヒットしている曲ではすべての要素が偶然にも調和を保ってパーフェクトになっているように見えて、実は、必然的にそうなっているのだと思う。一発屋というのもあるようだが、長らく第一線で活躍しているミュージシャンには、偶然という言葉は存在しないように思えてくる。

まるで生き物のように神秘的なそのかたちを頭の中に空想し眺めていると、ヒットするような曲にはあらゆる要素に超一流といったものが感じとれる。そのグループでしか演奏できない音楽に、必要な各要素がベストにパフォーマンスされるような最適化プロセスが働いているような気がする。その根本にあるのはそれを演じているその人の使命と役割だろう。その人が、そのバンド、グループがまさにその曲を演奏するからこそ、多くの人びとから親しまれる素晴らしい音楽が生まれる。

私たちは、それと同じようなことをソフィア・クレイドルというベンチャーという枠組みの中で実現しようとしている。シナリオ通り、必然といえるほどに事が運ぶようにするにはどうすべきか。これが肝心なところだが、この時一番大切な考え方は、まずはミュージシャンがグループを結成する時と同じように、その音楽を構成するボーカルやギター、ベース、ドラムを担当するいろいろな人的な要素を、妥協することなく集めるところからスタートするように思う。

イメージした構想をこのメンバーでなら為しえるのかどうかを、真剣に自問自答しながらグループを結成する。最初は一人だけのグループかもしれないが、思いが強ければ時の経過と共に運命の偶然や必然といったものに作用されて、いつしか自分たちにしか為しえないものを創造するためのグループが自然発生する。

いろんなミュージシャンの曲にそれぞれのカラーがあるように、グループが結成されれば、そのグループにしか為しえない新たな価値の継続的創作が求められる。最終的には売れるかどうかで、そのグループが存続できるか否かが左右されてしまう。従って、時代の潮流に揉まれながらも、トレンドを感じてあるいはあえて逆らいながら、それぞれのメンバーの才能を良き方向に顕在化させ、さらにそれを無限に伸ばしてゆく仕組みを発見し実践することが大切になってくる。

2005 年 04 月 04 日 : Shapes of tao

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無名は天地の始めにして、有名は万物の母なり。故に常に無欲にして以って其の妙を観、常に有欲にして以って其の徼を観る。(第一章)

古今東西問わず、世界中の人びとに永く読み継がれてきた形而上学の書としての「老子」はこんな文章から始まっている。「老子」は僅か五千字余りの文字からなる書物なのだが、そこにはものごとの本質や永遠の真理が秘めれているように思える。リズミカルで万華鏡のような陰影に富んだその箴言は、読む度にその時自分が置かれた境遇に合わせて解釈ができるから霊妙で味わい深い。

老子でいう「道」とは、万物の根源のことであって、万物を万物たらしめている原理原則のようなものらしい。しかし、これが「道」のことなんだと定義できるようなものは真の「道」ではないそうで、漠然として捉え難いもののようだ。

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、沖気は以って和を為す。(第四十二章)

人生を生きているとなんとなく、そんな法則のようなものが確かにあって、それが支配しているようにも感じられる。無から有を生む出すことが最大の使命であり永遠を目指しているベンチャーだからこそ、そんな形而上学に一種の憧れを抱く。

天下の万物は、有より生じ、有は無より生ず。(第四十章)

万物の源であり、無限にひろがる「道」に則って生きることができれば、少しは永遠に近づけるのかもしれない。そのためには「老子」でキーワードとなっている「無為」を理解することがちょっとしたヒントになるのだろうか。辞書で「無為」を調べると、「自然のままで人の手をくわえないこと」とある。

「自然のままに振舞うことって何なんだ?」という答えようのない疑問が生じたりするかもしれない。「老子」によれば、人間の知識というものには、ものごとを対立する概念に分類する傾向があるという。高と低、長と短、前と後、善と悪、美と醜などである。自然はこれらをどちらが優れるというわけでもなく無差別に包み込む。そんな姿勢が大切なんだろうか。しかし対立する概念の豊富さが創造の発想でもあるようなので、それを否定しきれないと思う。

「果てしなく広がる大地にあって、今役立っているのはその人が自らの足で踏んでいる部分だけなのだが、だからといってそれ以外の大地が不要ということにならない」という、「荘子」の「無用の用」の話にもあるように、傍目からは無用と思われている存在が実は役に立っていることを知るのは難しい。それを知るためのスタンスが「無為」であり、無から有を生む出すための大きなヒントにもなるような気がする。

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし、少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。難を其の易に図り、大を其の細に為す。(第六十三章)

聖人はあらゆるものごとを最初から難しいものと捉えるから、結果的にどうしようもない難しいことは何も起こらないという。こういった聖人のスタンスはベンチャーでリスクヘッジするための考え方として活かすことが可能だ。

ソフィア・クレイドルではソフトウェアを作るための謂わばメタフィジックなソフトウェアを創っている。老子のいうところの一種の「道」の世界の創造を目指しているのかもしれない。それを実現するためのコツは心を限りなく澄み切った透明にする姿勢にありそうだ。

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2005 年 04 月 02 日 : 起業の動機

ソフィア・クレイドル」というベンチャーを創業してから早3年が経過している。「光陰矢の如し」にしみじみ感慨を抱く今日この頃。事務所は同じなんだけれども、創業の頃と比べて、経営の安定について隔世の感がある。その源は曲がりなりにも売れている商品の存在とマーケティングの仕組みにあるのだろうか。

ベンチャーを創める前は、「倒産」なんていう言葉とは全く無縁の大企業に所属していて、生活の面では何も心配することなく無為に日々過ごしていた。客観的な視点に立てばこんなリスキーで無謀そうに思えるプロジェクトをどうして創めたんだろうか。その理由についてまとめるのはそれなりに意味があるだろう。

何をリスクと定義するかが肝心なことなんだけれども、世間一般の人のリスクの定義からすればベンチャーってヤバイ在り方なのかもしれない。ところが、私の場合、大企業の環境にずっといることにリスクを直感してこうしてベンチャーを経営している。大企業と違って、ちょっとしたボタンの掛け違いが致命的な結末になるのがベンチャーのように思われたりする。しかし、結局のところ、それは高速道路で車を運転するのと同じこと。ある一定の基本的なルールともいえる原理原則に従って経営すればリスクをヘッジするのは十分可能だ。

個人的な経験からいえば、大企業で働くというのはその会社の長年の歴史から培われてきたフレームワーク(枠組み)の中で生きてゆくことなんじゃないだろうか。それに対して、ベンチャーとは過去に存在し得なかった、新しいフレームワークそのものを創るのが最初の重要な仕事で、知性や理性、感性など本来的に人に備わっている優れたものを総動員し、駆使し、紆余曲折しつつも想いのままに築き上げてゆくプロセスなんだと実感する。

大企業じゃなくて、ベンチャーのような組織の方が持てる力を遺憾なく発揮できる人が実際にはもっとたくさんいるような気がする。仕事の種類が違うわけだから。何も皆が皆、完成されたフレームワークで仕事をする必然性もない。世の中の進歩発展のために新しいフレームワークのレゾンデートルは測りがたいほどにある。TOYOTAHONDAPanasonic等など、いまや偉大な存在になってしまった企業もその昔はベンチャーだったのだから。

何も無いところから、そういったものを創るのは確かに困難や苦労は伴う。しかし、その想いがビジョンとしてイメージする理想形に向けてステップバイステップに少しずつ成長してゆく。そんな姿を目の当たりにするのは他に代え難い感動だ。これだけはベンチャーをやった人にしか味わえない現実であり、できれば多くのスタッフと共有したい出来事でもある。

既に確立された、立派なフレームワークで活躍する行動も尊敬すべきだろう。でも、新たなフレームワークを自分たちの色彩を添えて創り上げることができれば、社会にとって必要な異なった新しい付加価値をもたらすことになるんじゃないかと考えたりする。ソフィア・クレイドルという会社は世界広しといえども唯一無二の存在であり、他の組織と違ったアイデンティティがある。このフレームワークからしか生み出すことのできないような価値を永続的に創造してゆくプロセスこそが究極の目標といえる。

最近、個人的な趣味もかねてミュージックシーンを俯瞰していると、目まぐるしく新しい音楽が登場し、それらは確実に人びとの心を奮わせたり癒したりしているように感じる。何故かベンチャーを創めてからは、学生時代の頃のようにCDを買い求めて音楽を聴くこと多い。(CDはそれ一枚でそのアーティストのその音楽の世界を表現しているように感じるので買うことが多い。)それでこうやって日記を書いているときも音楽を流していたりする。

仕事といえばなんとなくルーチンワーク的なもののように見なしがちだが、ベンチャーでそのフレームワークを構想するには創造性がとても要求される。それだけにやりがいがある仕事だと思える。そんな意味において、きっとベンチャーの仕事は芸術家のような感性が必要なんだろう。お気に入りのミュージシャンの音楽を聴きながら、彼らからインスパイアされつつ、日々愉快に過ごしている。

自分のたちの思いの全てをフレームワークとしてかたちあるものに築き上げ、その手応えを実感するのは、ベンチャーに携わり経営する過程で最大の喜びを確かめられる瞬間だ。

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2005 年 03 月 30 日 : DNA

ハードウェア製品の場合は耐久年数などがあって使っているうちに段々と消耗してしまう。そして、いつしか使用できなくなる。「エントロピー増大の法則」が働いているかのようだ。ソフトウェアは消耗することがない。重要なポイントとなるのが「使えば使うほどに価値を増してゆく」というコンセプトではないかと考えて、ソフトウェア研究開発事業を推進している。

アプリケーションと呼べるような最終利用者の方々が使うものではなく、そのアプリケーションを構成する部分的なモジュール(部品)のようなモノを創っている。とりわけスタッフたちが心掛けているのは、自分たちが創ったソフトウェアを永く利用してほしいという願いである。

開発者がソフィア・クレイドルのモジュールを拡張して自分たち独自のモジュールへと融通無碍に発展できるような設計思想となっている。使い捨てではなくて、何度も再利用し、その都度、時代のトレンドの歩調にあわせて、モジュールを変幻自在に発展させてゆけるのが大きな特長といえるだろう。

依然として、ソフトウェアは人の手によってしか創れないだけに、大変、貴いものなのだ。何千年もの風雪に耐え、今も原形を留める、古代エジプトのピラミッドのように、調和を保ってブロックを積み重ねるようにしてソフトウェアを構成すれば、長く利用されるモノになるのではないかと思い、そんなコンセプトで製品を研究開発している。

感覚的には、次のような式で表現されるよう、ソフィア・クレイドルの製品を取り巻くソフトウェアの価値が時間の経過にしたがって過去のソフトウェア資産をストックして共に高まることを狙っている。

Value = A( α ) × B( β ) × C( γ ) × …… (α, β, γ = 0, 1, 2, 3, …… )

最初はソフィア・クレイドルが開発した A(0) という価値しかないのだけれど、時間の経過と共にAのバリエーションを持たせた A(1), A(2), … というような新たな付加価値が、またソフィア・クレイドルによって創られる。そして、A はソフィア・クレイドル以外の組織によって創られた B, C, D … と組み合わせる相乗効果により、価値は幾何級数的に飛躍する。

すべては根源ともいえる A(0) から始まる。生物をメタファーにするならば DNA の存在に近い。それは未来を決定付けるだけに最も大切である。それだけに時間も手間もかけて、何度も何度も繰り返し試行錯誤するだけの理由があるといえよう。そうすることによって磐石なインフラストラクチャーが築かれてゆく。

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2005 年 03 月 29 日 : 元素周期律表

高校生の頃、化学の授業で、かの有名なメンデレーエフの「元素周期律表」を暗唱していたのが今では違う世界のことのように思い出される。

地球上には百花繚乱のいろんな生物や物体が存在している。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの発想から始まったらしいけど、原子レベルまで突き詰めると、人工的に生成されたものも含め僅か117種類の元素しかないということだ。しかもシンプルな規則性のあるテーブルとして表現できる。まさに驚きである。

実は世の中は、意外とシンプルな原理原則で構成されているのではないかと信じたくなりそうだ。実際、そう考えて事業展開を目論んでいる。

携帯電話向けソフトウェアの研究開発をしている。年を追うごとに新たなテクノロジーや斬新な企画が生まれ、ソフトウェアは大規模になり複雑化している。世界の人びとから期待を一心に集める、携帯電話向けソフトウェアの世界で、複雑系の問題に対してどう対処できるかがこれからの最重要課題だ。

メンデレーエフの元素周期律表のような考え方で、携帯電話向けソフトウェアを構成する元素のような基本的な要素とその組み合わせ(フレームワーク)に再構成することで、携帯電話向けソフトウェアの複雑系の問題に取り組んでいる。

元素周期律表の中にも、この規則から人工的に創り出された元素がある。私たちはすべての基本構成要素を自ら創造しなければならない。メンデレーエフの元素周期律表のような美しき規則を発見したい。

携帯電話向けソフトウェアの元素に相当するようなものを見出し、人びとに喜ばれる、多種多様なソリューションの創造に貢献できればと願っている。

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2005 年 03 月 27 日 : 経験分布関数

人や製品、事業など成長しうるあらゆるものにいえる事実だから、数学的にも研究されているのだろうか。経験分布関数(Empirical Cumulative Distribution Function)というものの性質を知るのはベンチャー経営でとても大切だ。 

ベンチャーでは成長こそがすべてといえるほど、ワクワク&ドキドキ感をもたらしてくれる源だ。それではその成長とはどんな風にして姿を現すのだろうか?

それは敢えて数値的に表そうとするならば、連続的な曲線ではなく、今日の日記の画像にあるように階段状の軌跡を描いてゆくように思われる。ベンチャーとは、全くのゼロからスタートし、それが徐々に大きなものへとステップアップしながら段階的に成長していく過程といえる。

最初はベンチャーのビジョンや目的や目標の達成に向けて、そのプロジェクトに関わるスタッフたちの全知全能を結集しいろんな試みをする。しかし、現実は長いゼロの状態が暫く続く。ゼロというのはゼロであり、それは天と地、有と無、生と死ほどにも段階的に異なっている。それから、あることをきっかけにしてゼロからプラスの状態に1段階ステップアップしていることに気付く。その後、また暫くは平行線を彷徨いながら、それでも前向きな努力していると、最初と同じようにしてあることをきっかけにステップアップし次の第2段階へと進むことができる。

ベンチャーでの成長とは、こんなスタイルで何度も何度も繰り返されてゆく過程なのだろう。さまざまな創意工夫や努力をしていても、その結果が直ぐには現れないところが一番難しいところであり、この過程を理解していないがために、途中で諦めてしまう人が多いのではなかろうか。また、自分の持っている知識や理解は意外とモジュール化されているので、自分たちがどの段階にあるかはなかなか分からないし、誤解も生じたりする。そもそも向かう方向が違う場合もある。

階段状にステップアップしつつ成長するためには、まずは、自分の得意な範囲から、広く前向きなビジョンや目的や目標に向かって努力が必要と思う。それをしない限り成長曲線は水平線を描いて停滞するのではないだろうか。創造的な停滞や沈黙というものもあるけれど、プラスの方向に向かって進んでいる限り、目には見えない関数曲線を描いて進歩している。そして、その成果は突然やってくる。

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2005 年 03 月 23 日 : 創造のために

日常生活において、整理整頓しないと時が経つにつれ部屋のモノは無秩序に乱雑に増え続ける。いつしかその部屋は飽和状態となり、新しいモノを全く受け付けなくなるだろう。だから、あるタイミングで私たちはいらなくなったものを捨てる。そうやって新しいモノを部屋の空いたスペースに入れるようなことをしている。

古いモノを捨てることによって新しいモノは自然に生まれるという教訓のようなものかもしれない。多くの人がずっと慣れ親しんできたモノや自分自身の固定的な観念をきっぱりと拭い去れないでいる。その結果、閉じられた世界から永久に脱却できず、いつまでも同じ地点を堂々巡りするかのように人生を過ごしがちだ。

ベンチャーであれば、新規性のあるビジネスの創造こそが突破口である。人びとにとって意外で新鮮な満足感をどうやって創り出せるかがその存続や発展を占うカギといえるだろう。

人間の脳細胞は数え切れないほど無限にあるように思えるが、実際は有限な存在でしかない。新しい何かを生み出すためには思い切ってこれまでの過去を全て捨てる去るのも一つの方法だ。

脳の中にある海馬には不必要なものは自ずと忘れさせてくれる仕組みが備わっているらしい。それによって人間は精神的なバランスをとっている。それをあるテレビ番組で知り、『忘れる』という一種の才能や能力みたいなものが興味深く思えた。

ベンチャー起業するにあたってたくさんのモノを捨てた。その結果、何か新しいモノを受け入れる余地を自分の中に創ることができたように思う。以前はできなかった大胆な発想もできるようになったりもした。

しかし、そんな風に生きていても過去の出来事はどんどん積み重なってゆく。なので、たまには過去を整理整頓し、新しき未来を展望するための段取りをせねばと思う。それによって、別の新しい世界が見えてくるような予感がする。

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2005 年 03 月 20 日 : 顧客の創造

大企業とベンチャー」の日記でも記したように「顧客の創造」ができればベンチャーも安定し、次のフェーズへのステップも見渡せるようになる。しかし、無名のベンチャーにとって「顧客の創造」というのは言葉でいうほど簡単じゃない。

今日は、私たちが『ソフィア・クレイドル』というベンチャーでどうやってその壁を乗り越えてきたか、或いは乗り越えて行こうとしているのか、『SophiaFramework』というソフィア・クレイドル製品を例にあげて戦略的観点からまとめてみようと思う。

先ずは『SophiaFramework』についての説明から。

『SophiaFramework』とはBREW搭載の次世代携帯電話向けソフトウェアライブラリーだ。携帯電話向けユーザーインターフェースを核としているのが大きな特徴になっている。(BREWについて:BREWとは!

簡単にいってしまえば、“パソコンのWindowsのようなGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)的な操作性を持つアプリケーションを携帯電話上で簡単に作れてしまう点”が最大の効能になっている。

携帯電話向けソフトウェア開発の業界を選択し、BREWに関する研究開発という事業に参入すると私たちが決断したのは2002年3月。KDDIがBREWのサービスを開始する一年前のことだった。その時、BREWのマーケットは日本国内には存在しなかった。世界市場を見渡しても辛うじて韓国のKTF、米国のVerizonというキャリアがBREWサービスを細々と開始し始めた程度で全く注目されていなかった。この業界の専門家の大半は、未来のすべてを託すかのようにNTTドコモiモードに集中していた。

BREWとは!の日記にも書いたように、次世代携帯電話が普及すれば、BREWはその世界的なデファクトスタンダードになりうる。それで事業をここに定めた。その時、私たちに幸いしたのは、当時はNTTドコモが世界的にも他のキャリアを圧倒していたので、BREWのコンセプトに着目し事業化しようとする人が少なかったことであろう。

一般に、ソフトウェアのデザインと開発で最も難しいのは、『ユーザーインターフェース』か『ネットワークプログラミング』ではないかと思う。私たちは先ず『ユーザーインターフェース』の部分に着目した。もともとBREWは米国で生まれたものであり、その当時アメリカの携帯電話は、日本よりも2〜3年時代遅れのものであったため、BREWが提供するユーザーインターフェースもそんな携帯電話で間に合うようなものでしかなかった。(こういうことは、世界の携帯電話事情を知らなければ意外に知られていないようだ。)日本国内の携帯電話にはメガピクセルカメラが内蔵されたり、QVGAという細かい文字や絵が描画できる液晶が搭載されいる。BREWがデフォルトで提供するユーザーインターフェースだけではそのハードウェアが持つ機能を十分に活かしきれるものではなかった。

パソコン、テレビ・ビデオ、自動車……どんなものにせよ、ユーザーインターフェースの革新と共にその利用者が圧倒的に増加し、そして利用者から支持され愛されるものになる。そこで私たちはBREWの携帯電話向けにユーザーインターフェースの革新を創造しようとした。

ベンチャーの場合、知名度のある競合他社が同じような製品を提供していると、余程の効能か営業力が無い限りそのベンチャーは生存すら困難な事態に陥る。私たちはそういった熾烈な競争を避けるために、最初は競合他社が存在しないBREWのユーザーインターフェースという、その当時極めてニッチなマーケットに照準を定めたのだった。

『GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)』は利用者にとって使いやすくその必要性は極めて大きい。しかし、その分プログラミングも複雑で大規模となり開発は大変である。

『SophiaFramework』の研究開発の過程において、さまざまな問題に遭遇しては、それを解決して一歩一歩進むというような感じで、一進一退のペースではあったけれど着実に歩を進めていった。携帯電話の特性上、貧弱な限られたハードウェアで“使いやすく豊富かつ高機能なユーザーインターフェース”という相矛盾する課題をどうやって調和をとって解決するか、が最大のポイントであった。

そんな風にして研究開発したユーザーインターフェースだから完成までに多くの時間を要したのだけれど、その時間の差そのものが『SophiaFramework』の競争優位性となったと思う。世界マーケットにおいて、“C++というオブジェクト指向プログラミング言語”によるWindowsのようなマルチウィンドウをBREW携帯電話で可能にしているものは未だに存在していない。

そういったGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)をBREW携帯電話で実現しようとすれば『SophiaFramework』しかない。謂わば『機能性』の希少価値を提供し、それによって顧客を創造するという戦略である。

無名で実績のないベンチャーであったにしても、そこにしか存在していなくて手に入れることができないものならば、その機能の必要性の強さに応じて売れる可能性が高まるだろう。そういったところに『顧客の創造』のヒントが隠されている。

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2005 年 03 月 18 日 : 大企業とベンチャー

ここ5〜6年ほぼ毎日といってよいほど学生さんと接している。ときどき彼らから将来の進路の話なども聴いたりする。

いつか起業したいが失敗したくない。きっと大企業であれば教育体制がしっかりしてそうだ。だから、最初は大企業でちゃんとした経験を積みたい。そんな学生さんも多いのではないだろうか。ドリームゲート・インターンシップでもそんな学生さんが多かった。

この話を聴いて私も昔はそんなところがあったかなと自分の昔の姿を懐かしんだ。学生であった頃、自分の想い描くように何でも事がスムーズに運ぶように主観的に世の中を甘く見ていた。実際は、それとは逆でものごとは自分の思いとは裏腹に推移することが多くいろんな失敗を積み重ねた。

典型的な日本人の考え方からすれば、「一流大学→大企業→ベンチャー起業→人生における成功」というような図式もあるのかもしれない。しかし、実際に生き残って成功しているベンチャー起業家たちの大半は大企業の出身者でなかったりする。なぜ大企業出身という経歴を持つベンチャー起業家が少ないのだろうか?

そもそもベンチャー起業にチャレンジする人が少ないという説にも一理ある。ベンチャー起業に求められる最も大切な要素が大企業では学べないところにその原因がありそうな気がする。逆に大企業で覚えたやり方や習慣が禍したりする。

私自身大企業で勤務していた経験がある。それがベンチャー起業とどう関わってくるのか個人的な見解をまとめてみたい。

どんなものにも必ず裏と表がある。大企業での経験がベンチャー起業にどんなメリット、デメリットを与えるのかゆっくり考えてみるのもたまには良いだろう。

確かに大企業は教育体制がしっかりしているといえる。教育は巨大な組織の一員として働く上で生産性をアップする目的でなされている。大企業は組織が巨大であるだけに、職務内容は細かく分類されている。そのため、その教育内容は細分化された専門性をより伸ばすようにカリキュラムは組まれているものだ。なので、自分の専門性を伸ばすためには大企業はもってこいの組織といえる。

一方ベンチャーの場合、創業期の頃は何から何まで自分がしなければならない。ITベンチャーだからといってプログラミングだけで済ますわけにはいかない。創業の頃は、資金繰り、経理、マーケティング、営業、受注・出荷、契約、人材採用、社会保険、備品の整備などいろんな多岐に渡る内容の仕事を一人でこなせすことが要求される。専門性も大切であるが、一種ゼネラリストとしての能力が要求されるのも事実だ。

勿論、会社が成長すればそれらの仕事も少しずつスタッフたちに権限委譲し、自分の手から離れてゆく。現実はそれ以前に立ち行かなくなるベンチャーが圧倒的に多いのではないだろうか。逆にそこさえ乗り越えると、その後は集中力で必要な知識を学べばなんとかなる。とにかく最初の難関をどうやってのりきるかがベンチャー起業の最大のポイントなのだ。

大企業の教育で学んだ専門知識や業務の進め方、組織などのノウハウも確かに役に立っているけれども、ベンチャーに必要な実務の8割方は未知の分野だった。オーナー社長という立場になって初めてそれを実感する方が寧ろ多かった。水泳にしても頭で学ぶよりも、実際にプールに出かけて練習する方がその習得は早いし、より確実だ。頭だけで考えていても到底泳げるようにはならない。ベンチャー起業も実践の場でしか学べないことが多く、それこそが成功に向けた大きな手がかりとなることが多い。

ベンチャー起業を成功させる上で最も苦労するのは、「顧客の創造」であろう。知名度も実績もゼロの状態でスタートすることの意味は大企業では決して学べない内容であり、ベンチャー起業家にとって最もよく理解しておかなければならないポイントだ。「顧客の創造」という難関を突破しない限り、ベンチャーの未来は絶対に有り得ない。

大企業の場合、その本人に実力がなくともそのブランドだけでモノが売れてしまう。それを自分の才能や能力であると錯覚する人が大企業出身者に意外と多い。

どうやって顧客を創造するかに関しては悩みつつ、いろんな試行錯誤を繰り返した。結局のところ、大企業の教育で学んだことからその解決策を見つけることはできなかった。実際にやってみて、プレッシャーを感じつつ当事者意識をもってやることでブレークスルーできた。

製品やサービスが売れて実績が出てくると、その後はだんだんと売上や利益も伸びてくる。創業時ほどいろんな奇抜な発想をしなくとも売れるようになる。そうなった時にその販売システムの効率化をする段階がやって来る。そんなフェーズで初めて大企業で経験したような知識や技術が活きてくる。いろんな業務をマニュアル化し、システム化する。それらの仕事は大企業では当たり前の話だ。

大切なことはベンチャー起業の最初をどう乗り切るかであり、それを達成できない限り大企業での経験を活かせる場はないのではないだろうか。そのためにもベンチャー起業の肝心要なノウハウをまず知っておくことがベンチャー起業家として成功するための必要条件なんだと思う。

世の中を見渡してみて感じるのは、ゼロから1を創りだす人よりも、どちらかといえば1を10にするような人の方が多そうなことだ。ゼロから1を創りだすのが起業家で、1を10にするのは実務家である。実務家を目指すのであれば、大企業で多くを学べるだろう。

もし自分が起業家タイプを目指したいならば大企業に答えを本当に見出せるかよく考える必要はあるだろう。ベンチャー起業について学びたいのであればできるだけ創業前後のベンチャーで最初から働いた方が多くのことを収穫できるというのが私の個人的な見解だ。ベンチャーの創業が成功して事業が軌道に乗れば、実務家としての知識が少なくて心もとない場合は、外部のコンサルタントや人材を雇ったり、ヘッドハンティングして実務能力を補強すればよい。ベンチャーを立ち上げるよりもずっと簡単なことだ。

起業家であり、実務家でもあるという人は更に少なくなるが、起業家からスタートすればそのような道も目指せるし、また新たな別の事業の起業もあり得るだろう。

どんなオプションを選んだとしてもそれなりの人生が待ち構えているだけだと思う。私個人はずいぶんと廻り道をしてしまった。過去を振り返らないので後悔なんて滅多にないのだけれど、挑戦すべきタイミングを逸していたり、選択を誤まったことも多かった。端的にいってみればそれこそが人生なのであるが、いろいろと紆余曲折があって興味深い話ではある。

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