2006 年 04 月 16 日 : Virtual reality
ネットからダウンロードした曲に耳を傾けながら、同じ曲なんだけれどそのときの心の様相によってさまざまな仮想現実が時々刻々と生まれては消えている。
これといって物理的で素敵な何かを求めるわけではない。漠然と想像力豊かにしてくれるものを自然と探し求めている。
21 世紀という新しい時代は、なんとなくそんな方向に動き出している実感を得ている。
y=F(x)
同じ関数 F でも x の値が異なれば、F の作用による x の結果 y の値もさまざまに変化する。
数学的にはそんな F のようなモノを創り出すことが僕の目標の一つでもある。
できれば結果である y の値は、それぞれのオリジナルとも言える x にとって最高にしたいという思いが確かにある。
2006 年 04 月 12 日 : 不易流行
「不易流行」という言葉がある。
かの有名な松尾芭蕉の俳諧理論を集約した概念で、芭蕉が創った言葉といわれている。
『去来抄』では、不易と流行に分けてこんな風に解説されている。
「去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。」
簡単に言えば、不易とは不変、流行とは変化を意味し、それらの根本は同じということらしい。
ご存知の通り、俳句は季語を含む五七五の三句十七音からなる定型詩である。
ともすれば、マンネリしがちな俳諧の世界にあって、どうやって道を切り拓いてゆくべきかという芭蕉の悟りが「不易流行」に込められているのかもしれない。
俳句ほどではないにせよ、携帯電話向けソフトウェアの世界にも、「不易流行」に通じる何かがあると考えている。
携帯電話では PC やサーバーといったような無尽蔵なハードウェア資源を期待できない。
けれども、十七音からなるたったひとつの俳句によって新たな境地が切り拓かれて人々の心に刻まれるように、携帯電話向けソフトウェアでもそれが充分に可能だと考えている。
未来永劫に変わらぬ原理原則のようなモノなくして何も始まらないし、そこから出発して一風変わったモノなくして普遍的な知の体系がひろがることもない。
不易から出発した流行の中から新たな不易なものを発見する。
そして不易なモノを系統立てて、コンパクトな携帯電話向けソフトウェアとして、ステップバイステップに積み上げてゆく。
僕たちの仕事は概ねそんな風に芭蕉の「不易流行」というスタイルを目指しているのかもしれない。
結論として言えるのは、僕たちの創っているものは日々変化に富むものかもしれないが、その基本は携帯電話に限らずあらゆるコンピューターに応用できるというコンセプトである。
2006 年 04 月 11 日 : 時空
昔、宮本武蔵は素手の柳生石舟斎に挑んだものの、全く歯が立たなかったという。
その時、石舟斎は武蔵に訊ねたらしい。
「鳥のさえずり、小川のせせらぎ、風の奏でる音 ・・・ これらの音が聞こえていたか」と。
武蔵には石舟斎しか眼中に無かったけれども、石舟斎は二人を取り巻く空間全体を把握していたということである。
石舟斎は大自然という偉大な力をも自分のものとしていたのだろうか。
これは、たとえば 2 次元と 3 次元の差に近い概念なのかもしれない。 3 次元の世界は 2 次元のそれを完全に覆い尽くし、遥かに広々としたイメージがある。
平面内では線で遮られていて向こう側に行けなくとも、3 次元空間ならば、その線をちょっとジャンプするだけでいとも簡単に向こう側に行けるという寸法だ。
何か素敵なモノを探している時。
次元を一つ増やして時空の場をぐっとひろげるなら、新しい発想というものはどこからともなくきっとやってくるだろう。
2006 年 04 月 09 日 : Shield
村上龍氏の「シールド(盾)」という本が話題らしい。読んでいないけれど、TV で紹介されている様子を興味深く観ていた。
起業すれば何でも自由に決めれる代償として、自分の身は自分で守らなければならない。
大企業で働いていると、自分に迫る危険や危機は全くといっていいほど無頓着になる。
何故なら、大企業という SHIELD が安全地帯を形成して自分を守ってくれるからである。
それでは自然界はどうだろうか?
あらゆる生き物は自分の身は自分で守っていると言えないだろうか。
外敵から身を避けて命を守らねばならない、厳しい環境にある野生の生き物ほど周囲のあらゆる動きや気配に鋭敏である。心であらゆることを察知しているようにも思える。
21 世紀の高度情報化社会では、人の心に深く共鳴する何かが求められるに違いないと思う。そもそも僕自身がそんなモノを求めている。
それを実現するのに絶対に必要なのは、研ぎ澄まされた感性そのものであると考えている。
どうすればそんな感性を自分のものにできるのだろうか?
そのヒントは、 SHIELD が外された大自然に生きる生命と同じ境遇にこの身が置かれるあたりに隠されていると思う。
2006 年 04 月 09 日 : Chemistry
「大きな仕事は小さく分割して一つ一つ片付けて全体を完成させる」という方法論を、多くの人が当たり前のように捉えるかもしれない。
この逆の思考回路から"イノベーション"や"ブレークスルー"といった革新は生まれると僕は考えている。
簡単に言えば、異なる 2 つを"組み合わせる"ことで、オリジナルとはスガタ・カタチを全く別にする、想いもしない新しい何かが誕生するという発想である。
ナトリウム(Na)と塩素(Cl)から食塩(NaCl)が化学反応によって生成されるのと同じである。
これは何も化学の世界に限った話ではなく、ビジネスでも、スポーツでも、ミュージックでも ・・・ あらゆる日常生活で実感できる現象なのだ。
そもそも、ごく限られた種類の素粒子から創まった宇宙がそんな風にして進化発展を遂げているのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
けれども、こんな問題意識をもっている人ってどれくらいいるのかと思ったりもする。
仕事を分割してゆくアプローチは既にカタチが見えている世界でもあり、それ故に誰もがそれに取り組みたがる。
何故ならば、なんとなく安心できるからである。
過去の歴史を振り返れば、「セレンディピティ」と言われたりもするが、偉大な発見や発明は例外なく予想もしなかった出来事から生まれている。
それは異質のモノ同士を組み合わせて新しい世界を探るアプローチである。結果が見えないだけに人生を賭けるとすれば多少の勇気や決断力は要求されるだろう。
でも、人生の妙味は意外性にあるんじゃないだろうか。
2006 年 04 月 06 日 : Hypothesis
先日の日記にも記したが、地球上の物質を分解していくと、6 つのクオークと 6 つのレプトンと言われる素粒子に辿り着く。
これらの素粒子はいつから存在していたのかと考えてみると面白いことに気付く。
確かに言えるのは、素粒子から構成される生命の創まり以前から既に存在していたという仮説である。
換言すれば、より単純で根源的なモノの方が永遠に近いということだ。
ゴーイングコンサーン、企業会計の世界では「企業活動は永遠に続く」という仮定の下に理論が展開される。
それは取りも直さず企業そのものの根本的な何かを求める活動にヒントが隠されている、と僕は考えている。
2006 年 03 月 31 日 : アシンメトリ
モノやサービスを売る人がいて、モノやサービスを買う人がいる。
概して、「売る」のと「買う」のはどちらが大変だろうか?
お金さえあれば「買う」のは誰にでも容易い朝飯前の話だ。
「売る」というのはそんな訳にいかない。「買う」の同じくらい簡単なら誰もベンチャー起業で苦労はしないし、きっとドリームゲートの存在も有り得ないだろう。
けれども、よく考えてみると、買った時に支払われるお金の総計と売った時に得られるお金の総計はイコールなのである。
この事実は一体何を意味するのか?
恐らくは、世の中の経済原則のひとつである、富の一極集中という現象の本質なんだろう。
「お金を稼ぐ」という観点から考察するならば、「モノやサービスを買う」のと同じ感覚で、ナチュラルに「モノやサービスを売る」という流れも創り出せるという意識は外せないかもしれない。