2005 年 08 月 15 日 : Mechanism
飛行機は自動車と比較しておよそ10倍程度のスピードで空を飛んでいる。"仕組み"が根本的に異なっているからそんな桁違いのスピードも実現可能となるのだ。ビジネスでも業績を10倍に伸ばそうとすれば、"仕組み"そのものを変革しなければならない。
ビジネスの場合、"仕組み"を決定付ける可変のパラメーターは無限にあり、かつ個々のパラメーターも如何様にも設定可能である。だからこのパラメーターチューニングはアートの領域といえるかもしれない。それほど微妙なバランスの上に成り立つ世界なのである。
業績を10倍に伸ばすためには人員を増やすというアプローチがまず考えられる。スタッフへの平均給与というものは人件費の総額を人数で割った数字である。また何時如何なるときも業績が好調ということはあり得ない。だから増員のアプローチはできるだ避けたい。
"現有スタッフでどうすれば業績が10倍になるだろうか?"言い換えれば"10人分の仕事を1人でやるにはどうすればよいだろうか?"こんな風に問題意識を持って真面目にこの問題に取り組んでいる人は少ないかもしれない。けれども個々のスタッフの生活の安定や充実、そして会社の存続のための本質はこんなところにあると私は考えている。
一つの答えは、定型的な業務は出来る限りコンピューター化するところにあると思う。その中でもお客様とのコミュニケーションをどのようにバランスよくコンピューター化するかが重要なポイントであり、最大の難関である。そのノウハウは未来の企業経営の根幹の役割を担うようになると考えている。
インターネットがブロードバンド化し、パソコンも高機能、高速化した今、文章だけでなくマルティメディア的な WEB 表現で、いろんな事柄や物事をお客様に伝えることができる時代となった。
例えば「"業績"="受注の数"」とすれば、"業績"を10倍にするということは注文の数を10倍にするということを意味する。Web 経由のみでビジネスを展開しているとすれば、これを達成するにはいろんなアプローチがある。
Web サイトにやってくるお客様の数を10倍にする方法。注文に至るまでのクリック回数を10分の1にする方法。1000名中1名の注文を100名中1名の注文とする方法など……
Web サイトによる販売のメリットは売上が安定するということと、365日24時間年中無休で全世界に販売できるポテンシャルがあること、それから何よりも費用が無視できる点にある。弱点は、コンテンツ自体は現代のコンピューターでは創り得ないことである。それだけは人間にしかできない仕事であり、人間がコンピューターに勝る点だ。それはソフィア・クレイドルのソフトウェア製品と類似した性格を帯びている。
インターネットで調べてみると、フェラーリ F430 という自動車は 490 馬力のエンジンを持っているらしい。他の自動車のエンジンにも同じくそれぞれに決められた馬力数の性能があって、その自動車を運転する人はその馬力でその自動車は走るものと見なす。ところが、人間にはそんな風に何馬力といったような定量的な数値で測れるものは存在しない。これは人間というものは如何様にでもパフォーマンス自体が変化してしまうから、測りようが無いからもしれない。
どんな時に仕事のパフォーマンスが最大化されるかは言うまでもないことかもしれない。敢えて言うならば「自ら仕事を計画し自らその仕事を実行する時」にのみ最高といえる仕事を達成しうるものである。大企業であればあるほど、自分や周囲の人々を見ていて、こんな当たり前なことが為されていないように思った。ベンチャーが大企業に互して世界に誇れる商品やサービスを提供するためには、少なくともスタッフが自ら自発的に仕事に取り組んで、桁違いのパフォーマンスを発揮するワーキングスタイルも欠かせない。
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2005 年 08 月 14 日 : Grassland
製品やサービスがお客様に選ばれるから企業は存続し、製品やサービスは企業に在籍するスタッフによって創られる。だからスタッフの才能や熱意、努力が全てともいえる。有能な人材がその企業にジョインし、ポテンシャルを発揮すればするほど間違いなくその企業は発展し繁栄するだろう。
最近、競走馬の育成についての本を読んだ。"ミホノブルボン"というダービー馬の調教師であった、故・戸山為夫氏が記した遺作である。サラブレッドでもミホノブルボンには血統的な魅力が全く無かった。それで他の馬の何倍もの調教を日々こなしたという。このような鍛錬によって無名の血脈に眠っていたポテンシャルが顕在化したという。
競走馬は牧草を食べる。牧草は大地に根を下ろす植物である。だから決め手は大地が原点と言えるだろう。大地に生える牧草も最初は大地の栄養分が潤沢にあるから質も高い。しかし大地は年々やせ細って栄養価に劣る牧草しか生えなくなっていく。その結果、競走馬の運動能力にも影響を及んでくるという。だから、青々とした牧草が生い茂る、広々とした大地で育った競走馬のスピードとスタミナは他よりも勝る。
それはその競走馬だけの問題でもなく、その競走馬を産むことになる母馬にまで遡って影響があるらしい。競走馬の訓練にしても早く始めれば始めるほどその才能の開花も早く、能力も最大化されるという。"競走馬"という一言では片付けられないほどの様々な努力がなされている。
どんな環境を用意すればスタッフが自然に育っていくのかと考えることも多い。この「鍛えて最強馬をつくる」という方法に何らかのヒントが隠されているように思った。
ベンチャーの場合、創業の頃であればあるほど、やるべき仕事の範囲も広い。それから毎年仕事自体がダイナミックに変化しひろがってゆく。しかもそれは年々スケールアップ、高度化する。それはあたかも競走馬が食べる栄養価の高く瑞々しい牧草の如くだ。
危機的な状況に遭遇することがあり、その都度ギブアップして脱落するものもあれば、留まるものもいる。それがその人間が次のステップに向けてステップアップするための脱皮のように私は考えている。その壁を乗り越え続けることこそがきっと成長の糧なんだろう。
自然淘汰という言葉があるように、人間社会もビジネス地帯は砂漠であり競争によって適者しか生存できないくらい厳しい。生き残るためには、厳しい環境に自分自身を置き続ける勇気と強い意志が必要で、それこそが"超一流"への最短経路だ。
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2005 年 08 月 13 日 : Goal
ハイテクベンチャーにて、過去に存在し得なかった新しいテクノロジーを研究開発し、マーケティングし、そしてグレードアップするサイクルを繰り返すのはマラソンのレースに参戦するようなものなのかもしれない。最終的に研究開発したテクノロジーが売れ、お客様の期待を上回る満足感が生まれる瞬間がマラソンでいうところのゴールインである。
マラソンでは自分の体力や能力に合ったペース、最適化されたランニングフォーム、強靭な肉体と精神力が思い描くフィナーレを飾るためのポイントとなるという。何よりもゴールインそのものの価値はランナーにとって他に代え難い。
直ぐには決着の付かない長期戦のレースは、序盤、中盤、終盤などの局面に応じた戦い方をしなければならない。それが最終的なゴール地点での栄冠獲得への決定的な要因となる。
手掛けるものが大きければ大きいほどゴールに辿り着くまでの道程は遠く、そして険しい。ゴールインできるかどうかさえ客観的な視点からは定かでない。ゴールに到達できなければ社会的に全く意味が無い。しかし、ビジョン、戦略・戦術、冷静な意思決定と絶対に達成する強い意志というような条件が揃えば、100%に近い確率でゴールインできると信じている。
マラソンは郊外の街並みを駆け抜けてゆくレース。ランナーたちの目にはその地点、その地点の美しい景色や応援する人々の姿が入ってくるらしい。ゴールまでの距離というものは最初遥か彼方にあったものが徐々に近づいてくる。それもゴールに近づけば近づくほど加速する勢いなのではないだろうか。トップでゴールを切るランナーの場合はそんな感じであるように思う。同じ往路の景色も、折り返し地点からの復路の景色とは違った映像として観えてくるに違いない。
独創的なテクノロジーの研究開発を創めた段階では、それが本当に実現するのかどうかゴールさえも見えないままにただ闇雲に走っている姿に近い。ずっと黙々と走っている時、突然光が差し込んできてあっけないほど新テクノロジーが実現してしまう。それまでは強い意志力で只管走るしかないのだ。
それ故に、新しいテクノロジーというものは、最初は実現するという一点にのみフォーカスが当てられているのだ。実際に利用する人の視点には立っていないのが実情だ。何しろ実現できるかすら分からないのに、使い勝手や利用シーンまでイメージする余裕は無い。
けれども、そのテクノロジーが現実のものとなれば、次は完成に向けて折り返し地点を回って油断することなく栄光のゴールを目指すのみ。多くのハイテクベンチャーが失敗する原因はテクノロジーの実現をゴール地点と錯覚してしまう油断にあると思う。その先にはまだ進むべき道があるのに…。
いくら画期的で革新的なテクノロジーを実現したとしても、期待を超える満足感や感動のイメージを利用者の心に描けなければ無駄骨としか言いようがない。そのためには先ずは利用者に使ってもらわなければ始らない。
長丁場の前半戦はどちらかといえば自分とテクノロジーとの戦いである。希求していたテクノロジーが実現された後、即ち折り返し地点を過ぎてからの後半戦ではそのテクノロジーを利用するであろうお客様の視点が大切になってくる。開発者の立場や都合で創ったものをお客様の軸に座標変換してテクノロジーを昇華させて初めてそれは真の意味でエンディングを迎えることになるのだ。
2005 年 08 月 12 日 : ある数学的な考察
公理とはそれが自明であることにしようという一種の前提条件のようなものである。数え切れない程の定理によって構成される、計り知れない数学の理論体系も創まりはほんの数個の公理の集まりに過ぎない。公理系に正しいと証明された命題を定理として追加し、その定理によってより複雑な内容の定理が証明されてゆく。それはソフトウェアを理論的に構成してゆく様に何となく似ている。
元を正せば、コンピューターは 0 と 1、そしてその 2 進数による加算からなる公理系から様々な定理のような機能が追加されて、今日のような誰にでも簡単に使える、日常の仕事や生活において欠かせないツールになった。
具体的なたとえで言えば、多くの方が斜辺の長さを C として、そのほかの2辺の長さを A、 B とすれば、
A × A + B × B = C × C
というピタゴラスの定理を覚えているのではないだろうか。この定理を使えば A = 3, B = 4 の時、容易に C = 5 というように C の長さを導き出せる。
レオナルド・ダ・ヴィンチによるエレガントな証明が存在したりする。一見簡単そうに見えるピタゴラスの定理を 10 分以内で証明できる人は 100 人中 1 人いるかいないかというところだが、この定理を使うのは至極簡単。それ故に使われ続ける定理は偉大であって永遠の存在そのものである。
寿命の長い製品を手掛けようとすれば、その製品の時間の流れる方向を見極めるというのが肝心なポイントではないかと考えている。元来、コンピューターは数学的な発想から生まれたものである。あたかも新しい定理が次々と証明されてはそれが数学的理論体系に付け加えられて数学が進化発展を遂げているように、ソフトウェアも樹木の年輪のような薄いレイヤーが時間の経過を経て積み重ねられては新しい発明や革新が起こっている。そしてコンピューターはますます人間に近い存在になり、ユビキタス(いつでもどこでも必要な情報が取り出せる環境)といわれるようなキーワードで表現されるようになってきた。
いま創っているものが"未来のソフトウェア"の前提になり得る定理のような存在であるか否か?その見極めこそがソフトウェア系ハイテクベンチャーの製品計画の本質だ。
2005 年 08 月 11 日 : Ocean
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し」
鴨長明による「方丈記」の有名な冒頭の一節である。オフィスから徒歩で数分のところに世界文化遺産として有名な下鴨神社がある。その近くを加茂川と高野川が合流し鴨川として北から南へと走っている。調べてみると、鴨長明は下鴨神社の神官の次男だったらしい。著名な文章は鴨川が合流する辺りの風景を眺めながら想い浮かべたものかもしれない。
いつも眺めている川は同じだけれど、その川を流れる水は決しては同じではないという意味らしい。何でも良いのだけれど、会社でもその存在そのものは何ら変わらないのに、それを構成するスタッフは時間の経過と共に変化する様がこんな感じである。
新しい世界を期待してソフィア・クレイドルにジョインする者もいるし、たまたま通過するものもいる。スタッフ自身も物理的に精神的に時の移ろいとともに確実に変化している。人それぞれに個人的な思いがあり、それを正確に捉えようとすれば正しく複雑系の科学なのかもしれない。複雑系の学問では、個々の構成要素をバラバラに分解しようとしても逆にますます複雑性を増すばかりで理解が困難になるが、複雑なものも全体の概念として把握に努めればその実像が明らかになると言われている。
会社についても複雑系的な発想でものごとを考えるのが良いのかもしれない。
大切なのはきっと創業以来存続している「ソフィア・クレイドル」という川のような存在が全体として何処に向かって流れているかではないだろうか。川の水が流れの方向に進んでいくように、会社のスタッフもその方向に向かって進むように。肝心なのはその川の流れの行き先は一体何処なのかという一点に集約されるように思う。
そんな事情もあって「方丈記」のこの文章は私にとってお気に入りで、ものごとの発想の原点でもある文章なのだ。名前に川のつく者も多くこれがまったくの偶然であるのも不思議な事ではある。京都には海がない。けれどもセルビアからはるばるやって来た外国人スタッフが活躍している。そのせいか流れの先にある海に共に憧れを抱いている。
2005 年 08 月 09 日 : Lifecycle
マーケティング理論によれば、製品には導入期、成長期、成熟期、衰退期といういわゆる製品寿命があって、それを前提とした戦略と戦術の策定と実践が重要であると言われる。ただ、過去の歴史を振り返れば、永遠に成長期であったり成熟期であったりするモノが存在するのも事実なのだ。音楽や絵画、或いは楽器や車などマシンも"古典"と呼ばれるような作品は、あたかも時が止まったかのように何百年もの時を経ているのに、今もって健在で生きいきとして魅力を感じることができる。
何ごとも思いから始まる。そんな"作品"と呼べるくらいの超一流の製品を創造することが出来て、それが人間の寿命を超越して永遠に近いほど存続しえるとすれば…どれくらい素晴らしいことだろう。これこそがお金に換えることすら叶わない究極の価値であり、人生を賭けて打ち込む理由もそこに見出せる。
確かにそんな偉業を成し遂げるのは簡単じゃないと思うけれども、モーツアルトやピカソのような作品が過去の事例として存在する以上、可能性は決してゼロでない。むしろ逆に無限の広がりのようなものがそこにある。
IT業界にこの身を置いて、ドックイヤーとかラットイヤーとか言って慌しく節操無く動いている業界構造そのものに何となく違和感を感じざるを得ない。日々、海岸に押し寄せては引く波間のうたかたのように多種多様なインターネットのサービスが生まれては消え去ってゆく。でもコンピューターやインターネットの原理自体は何十年間も全く変わっていないし、それを使う人間も"ニュータイプ"に革新したわけでもない。
製品とはそれを利用する人間がいて初めて用を為す。生物の進化の時間は私たちの寿命を遥かに超えてゆったりと流れている。人間そのものが変わるにはきっと何万年以上もの時が必要なのだろう。それくらい時の流れは雄大であって、製品開発のヒントも、そんな風に人類の進化を見つめたり、永遠の寿命を持つものにロマンや憧憬を感じたりするところに隠されているように思う。
2005 年 08 月 08 日 : Time is money
地球は今から50億年前という遠い昔に誕生したらしい。すると人間の生命なんて数千万分の1にしか過ぎず、ほんの一瞬微かに輝く流星のような存在かもしれない。だからこそ人生の時間を大切に生活することに意味がありそうだ。
"時間の価値って一体何なんだろうか?"
会社を経営していると、いろんな資源のうち時間という概念は空気のように見えて疎かにする人が多いように思ってしまう。しかし時間というものは誰にも平等に共通して天から与えられる唯一にして最も貴重な経営資源とも言える。
"Time is Money"なんていう言葉もよく聞くけれど、実際のところ、常にそんな風に考えて生活を過ごしている人って何%くらいいるのだろうか?そもそも"Time is Money"的な生活ってどんなものだろうか?
年収1億円以上の収入を得たいと思ったとする。大抵の人はその願望を抱いたまま無駄に時を過ごすだけというのが現実ではないだろうか。ではどうすればその思いを実現することができるのだろうか?私はその答えの一つとして、"Time is Money"的な発想が重要だと考える。
"Time is Money"的な発想とは…?
それは古代ギリシャの学者アリストテレスが物質の根源は何かという探求で原子というものを見出したようにして、ものごとを細かく分解し具体的なレベルまでに落とし込むところにある。
例えば年収1億円とだけ聞くと曖昧でアバウトな感覚でしかない。しかし1年間で働く時間数2000で割った途端、それが現実味を帯びてくる。この例で言えば、1年間で1億円を稼ぐというのはそれを2000時間で割れば1時間に5万円を稼ぐということに等しい。
翻って考えれば、年収1億円の収入を得たければ1時間当たり5万円稼ぐ仕事をすれば良いわけだ。その時に、現実の自分の仕事の1時間当たりの付加価値と5万円を比較して、ギャップはどうすれば埋められるか考え、アクションプランを実践すればそれは不可能ではない。実際には、アクションプランを実践できないから、思いを達成できる人がほんの一握りでしかないのだ。
それでは、1時間で5万円を稼ぐためにはどうすればよいのだろうか?1人のお客様に商品やサービスを提供してその対価として5万円を得るアプローチもあれば、100人のお客様に商品やサービスを提供してその対価として500円ずつ計5万円を得るアプローチもあり、その方法はさまざまである。
仮に1人のお客様から5万円を得るアプローチを選択したとする。その時、もしお客様がその商品やサービスから時間当たり50万円の価値を見出すことができれば、それは確実に実現可能だと言えよう。千円紙幣を1万円紙幣相当に交換してくれるショップがあれば誰もが殺到するのと同じ理由で。
必ずしもお金で換算できない価値がある。
けれどもこの場合の価値をお金に換算してものごとを見つめる姿勢は、商売を仕事にする上で外せない視点ではないかと思っている。